2017/02/05

【Japan】シリア難民とスティーブ・ジョブズの生涯(2017年1月29日のブログの続き)

 今回のブログは頭を整理しておきたかったことを備忘録としてまとめたもので、いつもと趣が違いますが、2017年1月29日のブログ「鶴岡八幡宮の初詣とヨブ記、そして映画『沈黙 -サイレンス-』」におけるヨブが対峙し納得した全能者を「宇宙の法則」と捉え直したものです。

(By Sam Dredge)

 相対性理論では時間と空間は相互に関連したもの(時空)として捉えられていますが、さらにブロック宇宙論では時間は過去、現在、未来と流れるのではなく同時に存在していると捉えられています。この考え方が正しいか否かは別にして、過去、現在、未来が同時に存在するならば、過去が未来に影響するのと同じように未来が過去に影響する、と考える学者もいます。そして、はじまりと終わりの中間には量子力学的なレベルを含め未来の選択が不確定性を引き起こしている、はじめと終わりは決まっていたとしても中間に不確定性があるが故に自由意志が存在する余地がある、とも言われてします。あるいは、脳科学的には0.2秒だけ自由意志が存在する、という研究結果もあります。

 因果律的な考え方には時間が過去から現在に流れる、という大前提があり、その大前提があった上で「過去の原因が現在の結果を生む=因果応報(因果律)」と考えます。ヒンズー教的には「善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし」と捉え、ヨブと友人は神が出現する前は「因果応報をヨブはよい行いをしてきた者にはよい報い、ヨブの友人は悪い行いをしてきた者には悪い報いを受ける」と捉えていました。
 イスラーム的には「審判の日に(天の)帳簿が開かれるのですが、その帳簿にはその人の行為が詳細に記録されています。記録したのは天の経理担当者ではなく、現世の各人の右肩と左肩にいる天使で、右肩の天使が善行を、左肩の天使が悪行を詳細に記録しています。そしてこの帳簿は審判の日に右手に渡されたものは天国へ、背中に渡された人は地獄へ送られます。」 (イスラーム金融とシャリーア・コンプライアンス) 、と因果応報が現世と来世にまたがっています。

 しかし、キリスト教は因果律でなく「人が救われるのは、人間の意志や能力によるのではなく、全く神の自由な恩恵に基づくという聖書の教理。」という予定説(Predestination)になります。キリスト教的には因果律という考え方は存在しません(ユダヤ教的にはヨブ記において、因果律に対する疑問は示されたが、確立しなかった)。


 因果律の逆に、未来が過去に影響を与える(逆因果関係)としたら、自分の未来を知るためには過去を振り返ることが重要になってきます。ユダヤ教のタルムードには未来を拓く方法として「後ろ向きに座って櫓を漕ぐ」という格言がありますし、スティーブ・ジョブズは有名なスタンフォード大学での講演でこのことを強調しています。


 「未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、
 君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。
 だからこそバラバラの点であっても
 将来それが何らかのかたちで
 必ず繋がっていくと信じなくてはならない。
 運命、カルマ…、
 何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。」


 では、スティーブ・ジョブズの生涯でこのことを考察してみましょう。

 スティーブ・ジョブズの代表的なイノベーションのひとつはスタンフォード大学の講演でも述べている美しいフォントです。

 「退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。」

(nippon.comより)

 ジョブズの言葉に「科学ではとらえきれない伝統的な文字の世界」とありますが、文字を神への芸術にまで高めたものとしてアラビア書道があります。

 「神の言葉を美しく書くために、1本の線に磨きをかけながら1000年以上の時間をかけて作り上げてきたんです。調べて見ると、文字のいろいろな部分の比率が黄金分割になっている。ピカソはアラビア書道について『すでに芸術の最終目標に達し始めている』と言っています。西洋美術が追い求めてきた完全な美しさを体現している。」


 そして、もうひとつのイノベーションはスマートフォンではないでしょうか。スティーブ・ジョブズそのものがスマートフォンを発明した訳ではないでしょうが、現在使われているスマートフォンの基本的な機能や形を定義し普及させたのは彼です。そして現在、スマートフォンはシリア難民などの必須ツールです。(「難民はなぜスマホを持っているの?」という素朴な疑問の答えから見えてくること

 「死と隣あわせの海の旅の途中で撮った写真は、難民申請を行う際の証明材料のひとつになります。また、スマホのGPS機能は、避難の道のりで大きな役割を果たしてくれることはいうまでもありません。さらに、先に同ルートを辿った仲間と情報交換をしたり、旅の途中ではぐれた家族と、アプリで連絡を取りながら目的地で再会するといったことも、スマホがあるからこそ可能になることなのです。」

(UNRWAより)

 2011年3月に起きたシリアの内戦から多くのシリア人が難民となりました。よく知られたことですが、スティーブ・ジョブズの実の父親はアラビア語を話すシリア人です。そして、美しいフォントのイノベーションはアラビア書道の影響からとも考えれますし、シリア難民の手助けをしているのがスマートフォンとも考えられます。

 スティーブ・ジョブズが亡くなったのはシリア難民が出現した年である2011年(10月)。未来が過去に影響を与えるとしたら、ジョブズの生涯は以下のように捉えることができます。

 「シリア難民の出現にジョブズの生涯が間に合った」

 そしてもし、はじめと終わりが決まっているならば、ジョブズの生涯は宇宙の法則通り(不確定性状態における自由意志でNeXTを創業した)、と捉えることができるのではないでしょうか。


2017/01/29

【Japan】鶴岡八幡宮の初詣とヨブ記、そして映画「沈黙 -サイレンス-」


 1月29日に遅まきながら初詣に鎌倉の鶴岡八幡宮を訪れました。源頼朝により鎌倉幕府の宗社とされた神社ですが、横浜からは近く、春の訪れを感じる鎌倉の街を散策しつつ時季外れの初詣を行うことができました。

 私の場合、どこの神社に訪れても賽銭を入れてお祈りするのは家族の健康ぐらいですが、何らかのご利益(Give&Take)をお祈りするのが神社と向き合う一般的な日本人の姿です。そしてお盆にはゾロアスター教からの慣習である先祖供養を行います。つまり、日本人は神や仏は「選ばない」という選択をしている訳です。

 そういう習慣を持つ日本人のひとりである遠藤周作さんは、母親がクリスチャンのため洗礼を受け、キリスト教を独自解釈し「沈黙」という小説を書き上げ、さらに「死海のほとり」で「同伴者としてのイエスキリスト」という信仰を確立しました。晩年は病と闘いながら「ヨブ記の評論」を書きたいと考えていたようですが、それは果たせず73才で永眠されました。
 英国の作家であるグレアム・グリーンが遠藤周作の「沈黙」を高く評価したため海外での評価が高まり、マーティン・スコセッシ監督が苦心して映画化に成功した訳です。

 そこで今回は、「ヨブ記について」を私なりにまとめ、映画「沈黙 -サイレンス-」の感想をまとめてみたいと思います。

 ヨブ記のあらすじは松岡正剛さんの千夜千冊「ヨブ記(岩波文庫)」に委ねますが、苦難を受ける前のヨブはユダヤ教的(律法)に「正しい人」で幸せな日々を送っていました。その後、ヨブが苦境に陥ると友人たちは、ヨブが苦しむのは罪を犯したからだ、という因果応報的論理で解釈します。しかし、ヨブは自分は正しい行いをしてきたと考えます。Wikiによると因果応報は下記のように解釈されていますが、因果応報をヨブはよい行いをしてきた者にはよい報い、ヨブの友人は悪い行いをしてきた者には悪い報い、と捉えているのです。

「本来は、よい行いをしてきた者にはよい報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがあるという意味だったが、現在では多く悪い行いをすれば悪い報いを受けるという意味で使われている。 」 Wikiより

 日本人は初詣でお賽銭を投げたとき、自分はいつも正しい行いを行っているからよい報いを与えてください、とはお祈りしません。どんな行いをしていたとしても小銭でご利益を求めます。


 このヨブと日本人の違いはどこから来るのでしょうか。。。

 私は、セム系一神教の神がユダヤ教もキリスト教もイスラームも「人格神」だからこそではないかと考えます(人の人格を持った存在が彼らの神)。その人格(ペルソナ)がユダヤ教、キリスト教、イスラームとそれぞれ違うだけなのです。

 そして最後に、人格神は沈黙を破りヨブの前に現れ、ある意味頭ごなしに「わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。」「これは何者か。知識もないのに、神の経綸(秩序をととのえ治めること)を隠そうとするとは。」と一気にたたみこんでしまいますが、ヨブは納得し従います。ヨブ記において人格神は沈黙しておらず、最後に出現することでヨブは納得するのです。

 「ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになる。ヨブは7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、なんと140歳まで生きながらえた。」

 というハッピーエンドの物語です。

 しかし、大前提としてユダヤ教やキリスト教においては「民は罪の状態」にあることで「人格神の沈黙」は正当化されています。ヨブが自分が律法的に正しいと考えていたときも苦しんでときも罪の状態ですから、人格神は沈黙しています。さらに、一神教とは人格神が「ひとつ」ですから人が人格神を選ぶことができません。人は人格神が沈黙を破るのを待つしか方法がありません。ユダヤ教を信ずるユダヤ人はもう4000年以上待っています。

 キリスト教ではユダヤ教の人格神にイエスキリストと精霊が加わり三位一体と考えます。そして人格神はイエスキリストという人格神をこの世に送り込むことで沈黙を破り、アガペーを説きました。欧米人にとりイエスキリストは人格神そのものであり「人」ではありません。しかし、人格神の沈黙を待ち続けているユダヤ人にとっては「タダの人」です。

 遠藤周作さんにとってイエスキリストは人格神というより「人」です。「死海のほとり」では「苦しむ人に寄り添うことしかできない人であり、失敗ばかりする人であり、70kgの十字架に貼り付けになることで、今までの失敗というマイナスの連続を括弧で括り、最後にマイナスを掛け算してプラスにしてしまった人」と捉えられています。これは欧米人の人格神という考え方とはかなり違うため、小説「深い河」ではクリスチャンである大津を通じ異端的考えだと断言しています。

 欧米人のクリスチャンにとってはイエスキリストという存在の出現がセム系人格神が沈黙を破ったことになるのでしょうが、日本人クリスチャンには三位一体であるイエスキリストは沈黙したままとしてしか捉えることができず、人格神そのものの存在が消えてしまいます。そこで遠藤周作さんはセム系人格神を以下のように捉えることにしたのです。

 「いつもすぐ近くで連れ添ってくれる同伴者=ナザレのイエス(イエスキリスト)」

 このことは「沈黙」から小説「死海のほとり」に至ることで、より輪郭がくっきり描かれています。

 ヨブ記での人格神はCreator(創造主)ですが、Creatorが存在するか否かは別にして、人間が支配されている自然界の法則は「ニュートン力学」であったり、「相対性理論」であったり、ミクロになると「量子力学」であったり、さらにミクロな「超ひも理論」だったり、ユニバースを基軸に考えれば「強い人間原理」だったり、マルチバースを基軸に考えれば「弱い人間原理」だったり、あるいは個人を基軸に考えれば「運命」であったりします。人格神であるからこそ沈黙という概念が生れてきますが、人格神でなく自然界の法則(Creatorが創造したかどうかは別にして)から考えると、沈黙はあたりまえ、ということになります。


 これらの前提で映画「沈黙」を観た感想は3つ。

 ひとつは、原作の小説が日本の漁民(百姓)の匂いを描写していたため、本のページから肥溜めの匂いすらイマジネーションできましたが、映画ではそれを感じませんでした。欧米の農家のイメージは牧草地に放牧された牛の糞の匂いであって、それにハエがたかっていたとしても、日本の農村の肥溜めにハエがたかるような感じではありません。遠藤周作さんの他の作品には「匂い」を感じませんから、「沈黙」では意識してそれを描写した(当時の日本の漁民や百姓をイマジネーションさせるため)と思うのですが、映像では「匂い」は伝わりにくいのでしょうね。

 二つめは、遠藤周作さんがあるエッセイで、グレアム・グリーンのことを「小説の中で心理的な解説を書くことが欠点だ」と批判していたように、ラストシーンでマーティン・スコセッシ監督はロドリゴの心を具象化させた...。もし遠藤周作さんがこの映画を観たら、原作のように描写せず、読者のイマジネーションに委ねた方がいい、とクレームを出したのではないでしょうか。なぜなら小説「沈黙」では、わざわざ最後のロドリゴとキチジローの生活描写は現代の日本語でなく、江戸時代の古文で記述してあります。マーティン・スコセッシ監督が神父になりたかったという経歴を持つが故の描写なのかも知れませんが、日本人としては、感動に永続性を持たせるならば具象化は不要だと思いました。

 三つめは、イスラエルでもヨルダンでも感じることですが、イエスキリストが過ごしたユダの荒野はまったく音のない世界なのです。つまり、Silentなのです。Silentであるからこそ、Creatorの声がイエスキリストのような預言者たち(ナビー)には聞こえるのではないでしょうか。日本の自然環境では海に行けば「波の音」、山に行けば風に揺れる「木々の音」があり、砂漠のように「まったく音がない」という場所はありません。預言者がイマジネーションから聞くものは、まったく音がないからこそ「Creatorの声=人格をもった神の声」になるのであって、もしそこに風に揺れる木々の音や波の音があったら人格を持つものでなく、自然の音からの自然崇拝になり、「Creatorの声=人格神」という発想になりません。

 映画の冒頭でまったく音のないシーンがあり、そのときにヨルダンのペトラ付近のホテルに泊まったときの荒野の静寂を思い出しました。日本の自然と比較してみると、日本に人格神が根付かない理由が分かる気がします。遠藤周作さんはそれを日本人に合うように、小説という手段で「いつもすぐ近くで連れ添ってくれる同伴者=ナザレのイエス(イエスキリスト)」と改善しました。そしてマーティン・スコセッシ監督はラストシーンを欧米人に合うように改善し世界に発信しました。

 欧米人はそれをどう評価するのでしょうか…(つづく