2010/05/31

【Japan】榛名湖周辺と小栗上野介忠順


 5/29、30は群馬県の榛名湖周辺にトレッキングに行きました。天候が今ひとつでしたが、新緑の中の酸素一杯の山道を歩くと、爽やかな気分になります。天神峠からヤセオネ峠(関東ふれあいの道)までの3、4時間ぐらいコースですが、木の階段が長く厳しく、今日はふくら脛がかなり痛いです。その後、バスで伊香保温泉へ。毎年、この季節は結婚記念日で国内の近場の温泉に行っていますが、今年は茶褐色の源泉かけ流しで有名な岸権旅館に泊まりました。霧が多く眺望は今ひとつでしたが、温泉でトレッキングの疲れが癒されます。

 翌日はバスで高崎まで戻り、レンタカーで小栗上野介忠順(小栗上野介の口癖)の群馬郡権田村へ。まずは国道406号線から鳥川(カラスガワ)の岸辺にある小栗処刑の地から、小栗の住居跡に行きました。住居は急な山道を上がり、少し下った坂の中腹にありますが、ひそやかな場所に屋敷の跡地はあります。私学校はここに建設するつもりだったのでしょう。そして、小栗の墓のある東善寺へ。小栗は鳥川の岸辺で処刑され、首級が館林へ運ばれ首実検の後埋められたままになっているのを、中島三左衛門(小栗家族を会津へ助け出した村人)らは奪い返しに行きました。かなり苦労したようですが、1周忌に館林の法輪寺境内から盗み出し、東善寺裏山の胴体と一緒にしました。これを「お首級(くび)迎え」と呼んでいます。小栗は子どもがなかなか授からず、後年に女の子を授かったのですが、養子として又一忠道を迎えました。悲しいことに養子又一忠道も鳥川で小栗とともに処刑され、東善寺の小栗の墓の隣に眠っています。司馬遼太郎が明治の父と呼ぶとか、横須賀造船所を建設したとか、功績は大切なことですが、権田村の村人に偲ばれていることが、何よりすばらしい。苔生した墓には真新しいいくつかの線香の燃え残し、そして展示場には小栗がアメリカから持ち帰った「マイナスネジ」が展示されていました。

 権田村からの小栗の歴史をまとめた「幕末開明の人 小栗上野介」(東善寺刊)が販売されており、当時の権田村の人たちと小栗の関わりをもう少し知りたいと思い購入しました。
                       

2010/04/14

【Japan】小栗上野介の口癖


 木村直巳の天涯の武士―幕臣小栗上野介という漫画を読んで、非常に面白かったので、記録に残しておきたく感想文をblogに載せます。私が小栗上野介に興味を持ったのは、高校時代に柴田錬三郎のエッセイ(生きざま)で、勝海舟と小栗上野介を比べ、勝海舟は明治まで生き残り自己宣伝書(氷川清話、海舟座談)をせっせと書き上げたのに、小栗は最後まで幕臣として筋を通したとあり、そんな人もいるんだと思った程度でした。なぜなら、歴史の教科書に小栗上野介は出てこないから彼の名前すら知らなかったのです。勝てば官軍ということなのでしょうが、小栗のことを知れば知るほど、その先見性に驚かされます。現在の日本の製造業がグローバル競争に関われるベースになった横須賀造船所の建設、横須賀造船所の建設以前に勝海舟と共に渡米しワシントン海軍工廠で「ネジ」を拾い持ち帰っているのです。おそらくマイナスのネジだと思いますが、ネジや金型、鋳造技術は製造業のベーステクノロジーとなります。ちなみに本田宗一郎さんがプラスのネジをイタリア視察で持ち帰ったことで、ネジを締める工程が自動化ができ、日本の製造業の生産性が一気にアップしたと、藤沢武夫さんは語っています(経営に終りはない)。

 その他、小栗上野介は現在の日本の基礎になる多くの計画(反射炉・造船所・火薬製造所・大砲製作所などの建設、後の連合艦隊に通じる主要6港湾に六備連合艦隊構想、洋式軍制、外国馬の導入、鉱山開発、商社や商工会議所、外国語・造船の学校設立、新聞発行、電信事業、横浜~江戸間の鉄道、ガス灯、郵便局、株式簿記、休日・昇進・昇給などの近代雇用体制の構築、酒類等への課税などなど)を用意していました。それは後に明治政府により実行されますが、発想は小栗のものです。

 小栗の性格を表す口癖は、

父母が大病で望みがなくても、もしや治るかと医薬の手当を止めないのが子の心情だ

と、幕臣としての「生きざま」を貫き通した人です。

 今年のNHKドラマは龍馬伝。勝海舟も出演しますが、小栗上野介は出演するでしょうか。
 小栗は日本国の幕臣として筋の通った「生きざま」であったからこそ、勝は自分の立場を「徳川」と「外へ」模索せざるを得なかった。
 
 もう一度、日本の未来を見据えた「新時代の横須賀造船所」のようなものを、どこかに作るべきです。

 今年は群馬県高崎市の小栗上野介の墓のある東善寺に訪れるつもりです。
                

2010/02/08

【Spain】ピカソと鳩と父親の関係に深い感動


 2月3、4、5、6とスペインのアンダルシア地方に行ってきました。4、5日は仕事でマルベーラという高級リゾート地のホテルでしたが、3日はマラガのピカソの生家とピカソ博物館、6日はミハスへと、仕事を挟んで時間のあるときに観光をしました。マルベーラはイギリス人の金持ちとアラブの王族などの保養地で、バブリーな建物が一杯です。スペインの失業率は20%に近づき、25歳以下の若者は43.8%(2009年11月)に達していますが、まだまだ保養地には人が一杯です。遠くに北アフリカの陸地が霞んで見え、冬でも20℃と暖かさから、寒いイギリスにとっては冬の保養地として、投資対象だったのでしょう。

 マラガのピカソの生家は小さな美術館になっており、ピカソの陶器や絵が飾られていましたが、1枚だけピカソの父親の絵が飾ってありました。ピカソの父親は画家だったようですが、子供のころに書いたピカソの書いた絵を見て、自分には才能がないと画家を辞めてしまいました。その父の絵は「鳩の絵」。写実画ですが、リアルな鳩で今にも動き出しそうです。ピカソの鳩好きは有名ですが、自宅の前の公園にも鳩が一杯。ピカソと画家の父、そして鳩。

 その後にピカソ美術館に行き、家族が保存していたピカソの絵や陶器などを観ましたが、「Mother and child」(1921-1922)という作品の前で思わず立ち止まってしまいました。この絵は女性とその子供絵ですが、母の顔の半分が父に観えるのです。右手は母、左手は父の手で、二人の手に子どもが抱かれているように観える。これには感動しました。実際の絵の大きさや筆のタッチからでないと想像できませんが、芸術とはこういうものなのかと、、。見学後に最後にもう一度観ても、同じ感動です。ピカソはアトリエには妻さえ入れなかったようですが、鳩は特別に入れていたようです。そしてこの「Mother and child」の構図。この2つのことが繋がり、魂が感動してしまったのです。今回の旅は出張でしたが、仕事は別にしてピカソの心に触れ、本当に良かった。

 最終日にはミハスの白い町並みを見学し、マラガ飛行場で帰国しました。

2010/01/25

【Japan】すし匠系列でNo1、西麻布のすし匠 まさ


 金曜日は久しぶりの寿司。リーマンショック以後は高めのお店(とはいえ、ひとり2万円以上というのが高めの感覚)に行くことは少なくなりました。特に給与が減ったわけでもないのに、気分的に高そうな店は控えてしまいます。金曜日は特に理由がないのですが、久しぶりに高そうな寿司屋へ。西麻布にある「すし匠 まさ」は「すし匠の系列でNo1」と言う人もいるぐらいの店で、3回目の来訪でした。あまり詳しく知りませんが、「九兵衛の系列」とか「すし匠の系列」とか、修行した店の出ところでそう呼ばれるようです。

 「すし匠 まさ」は手間の掛かった仕事を行う店で、素材そのままというより、「炙り」「昆布シメ」「西京味噌漬け」などで、魚をおいしくいただけます。ただ、海釣りを憶えてから、釣りたての魚の刺身、釣りたての魚を味噌漬けや干物にして食べる習慣がついてから、素材そのものの持つおいしさを舌が憶えてしまったのです。これはある意味不幸です。「すし匠 まさ」の手間の掛かったおいしい寿司ネタもいいのですが、素材のおいしさでも味わいたいと思ってしまうのです。もちろん、手間の掛かった、例えば、カラスミの西京漬けなどは絶品で、言葉も出ない程の味わいなのですが、、。
         

2009/11/02

【Japan】更科蕎麦とひとりひとりの質問に答えるダライ・ラマ14世


 東京で蕎麦を食べるときはいつも麻布十番の更科堀井で食べるのですが、ここは全国にある「更科」と名の付いた蕎麦屋の人的なルーツの店です。更科とはご存知のように蕎麦の身のところだけをひいて作るので蕎麦殻などが混ざっていない真っ白な蕎麦を指します。私は更科蕎麦でなく黒い斑点のある普通の蕎麦を食べるのが常ですが、10月24,25に食べた山形の蕎麦(紅葉の銀山温泉と新そば祭り)と味比べと思い日曜日に訪れました。山形の蕎麦は黒い斑点のある田舎蕎麦ですが、特に10/25の新そば祭りの蕎麦の方が断然うまい。蕎麦は好みなので何とも言えませんが、私は田舎蕎麦が好きみたいです。

 その後、両国国技館でダライ・ラマ14世の法話を聞いてきました。夏休みのアイガー北壁(ロンドン、ルツェルン、メンヒヒュッテ、アイガートレイル)からハラーさんを知り、そしてハラーさんが若きダライ・ラマ14世の家庭教師だったことを知り、ダライ・ラマ14世の法話を聞くことになったのです。チベット問題などの話は一切なく純粋に仏教の話。

 「空を正しく知ることは自我を捨てることになる」
 「仏教はユダヤ・イスラム・キリスト教のような絶対神の概念はない」

などなど、たくさんの仏教の法話でした。

 ダライ・ラマ14世が「般若心経」を最初に唱えてください、と言われると、韓国からの団体での参加者も日本人も同じように唱えていました。600巻もある「大般若波羅蜜多経」を276文字に圧縮し、分かりやすくした経典だけあり、人種を超えた連帯感が生まれます。

 日本では浄土真宗と日蓮宗を除く宗派は教義の基礎と位置づけているようです。蕎麦の更科もそうですが、日本の仏教の宗派もいろいろですね。

  • 転生者の発見方法
  • ダライ・ラマとパンチェン・ラマ

なども興味がありますが、たまには仏教のことを本格的にじっくり聞くのもいいものだと思いました。特に「空を正しく知ること」が仏教理解の正門であることと、ダライ・ラマ法王が講演後にひとりひとりの質問にちゃんと答えていたことが強く印象に残っています。

※ダライ・ラマ14世の語るダライ・ラマ制度の未来

 『チベット仏教文化の伝統に従えば、ダライ・ラマや高僧の転生者探しは、宗教関係の行事であり、政治とは何の関係もない。特に仏教の教えを否定している者にとっては、転生者探しに何の関係もなければ、それについて議論する権利もない。転生者探しは、職員や委員を選出したりすることと異なる。高僧の化身は、常に全ての生きとし生けるもののためになるように考えて生まれくるので、生まれる場所、父母と家系などが重要となる。これはチベット仏教文化の特徴である。

  もし、チベットの人々がダライ・ラマの転生者が必要であるなら、私の転生者は、中国支配下のチベット国内ではなく、平和な世界のどこかの国に生まれると断言する。それは、前生がやり残した仕事を引継ぎ成就するために転生者は生まれ変わるとチベット人が信じているからである。前生がやり残した仕事を邪魔したり破壊したりするために生まれ変わる転生者はいない。もし、転生者がやり残した仕事を継承できない国に生まれたら、転生者として生まれ変わる意味がない。つまり、私の転生者を必要とするかどうかを最終判断する権利は、チベット国民にある』

ヒマラヤを越える子供たち Escape over the Himalayas
 Maria Blumencron/監督 チベットサポートグループKIKU/販売
中国支配の続くチベットを逃れてネパールに亡命するチベット人は今も毎年1000人以上にのぼる。両親と離れ、冬のヒマラヤを歩いて超えるチベット人の子どもたちの逃避行に同行したドキュメンタリー。

 このDVDは契約しているレンタルサイトにはなく、購入しました。

2009/10/27

【Japan】久しぶりのフレンチ ル・ブルギニオン




 10/26日は2009年2月19日のシェ・ピエール(乃木坂 のビストロ、シェ・ピエールが閉店)以来久しぶりにフレンチレストランに行きました。レストランというよりビストロですが、西麻布3丁目(テレ朝通り沿い)の「ル・ブルギニオン」というお店です。

 ジビエの季節ですし、内臓がおいしいらしいのでここにしました。フレンチビストロも自ら経営する嶋啓祐さんが褒めていますが、ブルゴーニュワインの品揃えが豊富のようです。メインで小鳩のローストか内臓料理か悩んだのですが、菊地美升シェフの得意な臓物料理はコースの2皿目のフォアグラを豚の血と背脂をミンチにしてテリーヌ状に仕上げたものにしてもらいメインは小鳩のローストにしました。ついでに菊池シェフの書いた本も2冊(「60本のブルゴーニュワインに捧げる60皿の料理」、「1つの料理からひろがるフレンチ―「ル・ブルギニオン」の家庭料理」)もサイン入りで買いました。「この本のとおりに作るとこんなところに来なくて済みますか?」と聞きましたら、菊池シェフ曰く「23年かかりましたが、、」とのことです。2009年にはミシュランの1つ星。料理は奥が深いですね(笑)。  久しぶりのフレンチのコース。 たまにはいいものです。 デザートのモンブラン、栗のうまさが凝縮。 おいしかったー。         

2009/10/26

【Japan】紅葉の銀山温泉と新そば祭り


 10/24,25と山形県の銀山温泉に行きました。6月の結婚記念日に行こうと4月ぐらに連絡したら泊まりたかった能登屋という旅館が満室。6月は奥鬼怒温泉郷の加仁湯(奥鬼怒温泉郷 加仁湯、サンショウウオの天ぷら!)に行きましたが、ついでに半年後に予約をしておいた訳です。昭和の初期に建てられた趣のある温泉宿なのですが、たまたま社員旅行の団体が隣と上の階で、夜遅くまでうるさく、ノスタルジーも半減。前回の加仁湯でも集団の日本人の騒音に悩まされましたが、有名旅館では仕方ないですね。 山形は蕎麦がおいしいと知人に聞いており、25日は大石田の新そば祭りにも顔を出しました。少し甘めの汁につけて食べる新そばはなかなかおいしく2杯をペロッといただきました。前日には大石田の駅からタクシーで8,000円もかけて山を越え、有名な大根卸の汁でいただく次年子の「七兵衛そば」の蕎麦(一人1,050円で食べ放題)もいただきました(笑)。次年子とは集落の地名ですが、タクシーの運転手さんによると次年子は毎年2メートルの豪雪地帯で、雪のため冬に子供が生まれると役場の出生届けが翌年になってしまうことから集落名が「次年子」(ジネンゴ)と呼ばれるそうです。雪降ろしは多いと年5回だそうで、少なくても3回とは驚きです。私は雪国の生まれで、1回の雪降ろしでもかなり大変なのですが、5回となると気が遠くなります。 蕎麦・そば・ソバの2日間でしたが、紅葉も見頃で東北の秋を満喫できました。 去年の紅葉は草津(10月の草津白根山は冬)でしたが、今年から東北地方にエリアを広げています。

  ※写真はClickで拡大、能登屋旅館全景。                  

2009/10/19

【Japan】佐島のカワハギ釣り


 日曜日は今年の1/2日にカハワギ釣りに行って以来のカワハギ釣りに佐島に行きました。カワハギは冬場になると肝が膨らみおいしくなります。10月から2月ぐらいまでが旬です。この魚は餌とり名人と呼ばれるぐらいに餌のアサリをうまく食べてしまいます。今回の釣果は二人で3匹(小さいものはリリース)。カサゴが2匹。久しぶりの肝醤油でいただくカワハギの刺身はうまかったのですが、帰りの首都高合流地点の渋滞にウンザリで、次回は品川の船宿から行くことになると思います。 ※写真はClickで拡大(一番右は背びれに1本長い髭があるのでオスです) ところで申し込んだ東京マラソンは抽選に外れました。11月に再抽選があるようですが、無理なら他のマラソンに申し込むしかなさそうです。 今週末は山形に紅葉と新蕎麦を楽しみに行きます。          

2009/10/05

【Japan】気仙沼の居酒屋ぴんぽんの戻りカツオとサンマ


 今年の5月に高知に初カツオ(土佐の初カツオ、山口一豊の妻 千代は郡上八幡城主の娘?)を食べに行きましたが、秋になったので三陸海岸の戻りカツオを食べに気仙沼に小旅行をしました。9月末の第3四半期決算も無事終えた10/3・4の一泊旅行ですが、まずは仙台まで新幹線で行き、ランチは利休の牛タンをいただき、レンタカーで気仙沼へ。夕食は気仙沼で有名な居酒屋ぴんぽんというところで戻りカツオとサンマ、そしてアワビ、イカ、生牡蠣など新鮮な気仙沼の魚をいただきました。気仙沼では福よしという居酒屋の吉次(キンキ)の塩焼きがうまいらしいのですが、1週間前の予約電話では満席。戻りカツオが目的ですし、吉次(キンキ)は知床(知床五湖とキンキ)に任せて、気仙沼では居酒屋ピンポンとなりました。ところがこのぴんぽんの魚はうまいのです。今年は戻りカツオは小ぶりで脂の乗りがいまひとつのようですが、ここでは脂の乗った戻りカツオとサンマの刺身がすごい新鮮でうまい、薦められたビンチョウマグロのハラミとサンマの塩焼きも脂が乗っていてうまい。そして居酒屋ピンポンは異常なくらい安い。「うまい」「安い」「新鮮」という表現がぴったりの店です。 ※写真は刺身の盛り合わせ(Clickで拡大)、これで2,000円。あまりのおいしさに別に追加でサンマ刺し300円、戻りカツオ刺し400円を注文。 日本では現地の旬な食材を素材を活かした料理でいただくと最高においしいものです。仙台から三陸海岸沿いのドライブは疲れましたが、新鮮な旬の魚に満足した小旅行でした。            

2009/09/24

【Japan】白山の雲海に浮かぶ素晴らしい朝日





 ナマステ!

 2008年の9月に銚子ヶ峰に登ったとき(白山登山の演習で銚子ヶ峰へ)に来年は白山登山を弟家族と約束したので、9/20,21日と山小屋(室堂)に泊まり本格的な登山をしました。白山は富山県、福井県、石川県にまたがる2702メートルの山で富士山、立山と並ぶ日本三霊山です。フランス語で「モン」が「山」、「ブラン」が「白い」で、山の形も似ているため日本のモンブランとも呼ばれています。頂上付近はすでに紅葉が始まり美しい高山の草原、そして夕日、夜の星空、朝日と心を感動させる景色のオンパレードです。平瀬道で登り5時間、下り4時間とハードでしたが、弟の中学生の子供たちもコンデンスミルクを舐めながら無事登頂、下山ができました。私は3日もたつのに足はガクガク、風邪気味で、もう少し足腰の筋肉を鍛える必要がありそうです。

※写真は雲海と日の出(Clickすると拡大)
           

2009/09/14

【 Switzerland】ミッテルレギ小屋からのビジネス


 9/12日に辰野勇さんの講演を六本木の富士フィルムで聞いて来ました。辰野さんは21歳のときにアイガー北壁、マッターホルン北壁を登り、その後に株式会社モンベルというアウトドアグッツの会社を設立した人です。彼は16歳のとき、国語の教科書にあるアイガー北壁を初登庁したハインリッヒ・ハマーさんの著書「白い蜘蛛」の一節(7名が雪崩で遭難)から、日本人としてアイガー北壁に挑戦したいと志を抱き、そしてコツコツと貯金をはじめたそうです。そして、シベリア鉄道でスイスに入り、グリンデルヴァルトの牛小屋(アルピグレン)で40日間天気を待ち、アイガー北壁の第2登頂に最年少で成功しました。その後、マッターホルン北壁をも制覇しました。
(グランド・ジョラスは日程的に無理だったようです)

 モンベルはグリンデルヴァルトにお店があり、日本のアウトドアメーカーの店があるなんて、と最初にスイスに訪れたとき(2007年)に驚いていたのですが、今回の講演でその理由が分かりました。アイガー東山稜(ミッテルレギ)の初登頂を行った槙有恒さんの寄付(50%)で東山稜にミッテルレギ小屋が建てられたことは以前にご紹介(ロンドン、ルツェルン、メンヒヒュッテ、アイガートレイル)しました。90年程前のことですが、その後にグリンデルヴァルトは日本人の登山家や観光客で潤い、アイガー北壁を登頂した辰野勇さんも人間的なお付き合いを現地の人たちと続けていました。グリンデルヴァルトの村長さんからの勧めで店を構えたそうですが、場所はCoopの隣の一等地です。大資本で市場調査を行い一等地に店を構えるという海外進出もひとつの方法でしょうが、槙有恒さんからはじまった人間的なお付き合いからアライアンスが育まれてビジネスなる。こういう方法どう呼べばいいのか分かりませんが、ここでは

「ミッテルレギ方式」

と呼ぶことにします。もちろん店が繁盛しないとビジネスは意味がないので、ここからが大変なのですが、、、

※写真はClickで拡大、グリンデルワドルのホテルから、夜の9時のアイガー北壁

 このblogでも紹介した冨田洋さんの「アントレプレーナー富田洋さんと人道目的の地雷除去支援の会」には日本の大企業の方々が多く参加されていましたが、その後のタイ(東南アジア)でのビジネスはスムースだったのかも知れませんね。

 以前に「家庭で作るトルコ料理」から作った料理(バルク・チョルバス、チョップシシ)が今ひとつだったので、味を覚えようとこの本の著者が学んだというアナトリアで食事をして帰りました。イラク人の団体さんが隣にいたので、帰り際に

「مع السلامة」

と言ったら、通じたようで「こんばんわ」と日本語で返されました。
早く「アラビア語の白い蜘蛛」を脱出したい...

               

2009/09/07

【Japan】真鯛? ワラサ(ブリ)は食べ切れない!


 9/5日の土曜日にはじめて相模湾の真鯛釣りに挑戦しました。佐島のつね丸という鯛釣り専門の船宿から朝の6時に出港。夜中の3時からレンタカーを借りて佐島に行くのですが、真鯛釣りは朝方が釣れるのか、朝6時発が多く、東京都内からはつらいものがあります。釣果はワラサ2匹とイナダ10匹。ワラサもイナダもブリの子供で、大きさにより出世魚で呼び名が変わります。関東では35から60cmをイナダ、60-80cmをワラサと呼び、80cm以上をブリと呼んでいます。ワラサはワイフも1匹あげましたが、かなり腕が疲れます。餌の交換などは50m以上の棚なので電動リールで行いますが、釣れてからは糸が切れないように腕でゆっくりと上げます。 今回は真鯛の顔は見れませんでしたが、まずまずの釣果なので、西麻布2丁目の鮨屋やお惣菜バーの方にもらってもらい刺身、焼き、ブリ大根などでいただき、残りは切り身を冷凍しました。来月からは肝の詰まったカワハギの季節になりますので、新鮮でおいしいカワハギを肝醤油いただけるのです。こういうのは釣り人の贅沢というか、しやわせというか、釣りたてはうまさが違います。

2009/08/24

【Japan】タチウオ大漁とハラーさん

 土曜日は東京の釣りの師匠の誘いもあり2度目のタチオウ釣り(海釣りの師匠とともに、はじめてのタチオウ釣り)に挑戦しました。釣りは腕もありますが、天気とか波とか潮とか、その日の環境に影響され釣果が違ってきます。今回はワイフもタチウオの合わせのコツを掴んだのか8匹、合計で23匹と大漁です。夕食がタチウオのみでは寂しいので、帰りに佐島の魚屋さんにも立ち寄り、真鯛、キンメ鯛、活き蛸を買い込みました。自宅についてからが大変です。大量のタチウオのうち大きめのものを刺身に、ハラミとか卵は煮付けに、そしてから揚げと、残りは干物にしました。刺身は真鯛、キンメ、蛸を加え、キンメは煮付け、骨や頭でアラ汁と料理を終わったのが9:30。6:30にはじめましたから3時間の料理です。 (1)タチオウ刺身 (2)タチウオハラミの煮付け (3)タチウオから揚げ (4)タチウオの一夜干し (5)真鯛の刺身 (6)キンメの刺身 (7)活蛸の刺身 (8)アラ汁 と合計8品、野菜を足すと10品。

 翌日は「家庭で作るトルコ料理」を参考に2品料理。ひとつは残った刺身でスパイシーな魚のスープ(バルク・チョルバス)もう一品はスパイシーな鳥料理(チョプ・シシ)。2品ともいまひとつの味でした。 

 今週は料理三昧の休日でしたが、アイガー北壁をはじめて登頂したハラーさんが主人公の「セブン・イヤーズ・イン・チベット」もビデオ鑑賞しました。ハラーさんの人生はアイガー北壁がきっかけでヨーロッパからアジアにシフトしていきますが、ドイツに併合されたオーストリアと当時のチベット(ラサ)の状況は共通点もあり不思議な人生を送られた人です。まさか輪廻転生されたダライ・ラマ14世がハマーさんに映画館の建築をお願いしていたとは知りませんでした。そしてこの映画があり、いつでもDVDで観れることにハマーさんの役割というか、ミッションを感じてしまいます。
                

2009/08/05

【Switzerland】ロンドン、ルツェルン、メンヒヒュッテ、アイガートレイル


 マイルを貯めている航空会社がJALなので夏休みの目的地であるスイス(チューリッヒ)直行便がなく今回はロンドン経由となりました。他にもパリ、ミラノ、ローマ経由などもあるのですが、今働いている会社の上司もロンドンにいることですし、1度ロンドンに泊まってもいいかと、1日の滞在・観光をしました。窓からタワーブリッジが見えるホテルだったのでビックベンまで歩き、バーでフィッシュアンドチップスを食べ、翌日は大英博物館の観光です。

 ロンドンはあいにくの雨で、寒いロンドンの夏を経験することができました。イギリス人はスペインにたくさんの別荘を買いスペインが不動産バブルとなり、今回の世界金融危機で大変な様子ですが、この夏の寒さから暖かいところで太陽にあたりたい気持ちも分からない訳ではありません。

 大英博物館のエジプトのミイラなど無料で展示物が見れますが、剥奪の歴史を感じます。また、直接的にイギリスの階級社会に悩ませれたことはありませんが、街の隅々に社会階級を感じます。ロンドンの雰囲気も分かり、今回の目的のスイスに移ります。


 スイスはスイスパス(スイス人は購入できない)という日本の青春18切符のような鉄道パスがあります。特別な登山電車などは別にして大抵の電車でスイスパスが使え便利です。チューリッヒからピラトゥス山の麓のルツェルンまではこのスイスパスで電車移動です。

 ルツェルンはカペル橋が有名ですが、木造の古い橋にも関わらず、観光客はもちろん、通勤にも利用されているようです。ピラトゥス山にピラトゥス鉄道で登りましたが、残念ながらガスで真っ白。中央スイスからのアイガー、マッターフォルン、モンブランは眺めることはできませんでした。山の天気は変わりやすく翌日の移動の日のピラテゥス山は見事な晴れでしたが、次のインターラーケンに移動です。


 インターラケン・オストの駅からヴェンゲンへ行き、そこからロープーウェイでメンリッヒェンへ。このメンリッヒェンからクライネ・シャイデックまでのトレッキングコースは1時間半程度ですが、アイガー北壁は真正面にあり最高の眺め(お勧め)でした。

 ユングフラウ鉄道の始発駅クライネ・シャイデック駅にはアイガー北壁を登る人のサポーターが泊まる山岳ホテルがあり、今回はこの宿(Bellevue Kleine Scheidegg)ひとつめの拠点にしました。クリント・イーストウッドの「アイガー・サンクション」という映画でもサポーターがこのホテルから望遠鏡で北壁を登るクリント・イーストウッドを見ているシーンがあります。

 クライネ・シャイデックは標高2000mぐらいで、アイガーはこの駅から2000mプラスし4000mの山です。アイガーは他の山と違い夏でも冬でも真っ黒な山です。垂直のため雪すら積もらず、氷が張り付いている北壁なのです。そこに一箇所「白い蜘蛛」(White Spider)氷が溜まった跡が「蜘蛛」のような場所が頂上付近にあります。そこは最難関と言われ、ここで遭難した登山家、渡部恒明さんと高田光政さんの実話が新田次郎の「アイガー北壁」という短編小説です。

 また、「白い蜘蛛」というテーマでアイガー北壁を最初に突破したオーストリアのハインリッヒ・ハラーが著者を出しています。第二次大戦中にインドで英国の捕虜からヒマラヤに逃げ、そこで出会ったダライラマ14世の幼少時代の交流は「セブン・イヤーズ・イン・チベット」という映画にもなりました。

 クライネ・シャイデックで山の天気を見ながら3400mのユングフラウヨッホ駅まで電車で行き、メンヒヒュッテまで雪の上を歩きました。メンヒはアイガー、ユングフラウと並ぶ4000m級の山で、その山小屋が3600mぐらいの地点にあります。ヨーロッパの登山は頂上に近い山小屋に一度宿泊し朝早く軽装で頂上を目指し、その日のうちに帰って来るというパターン(アルパインスタイル)多いために、頂上まで4・5時間の地点に拠点となる山小屋があります。

 メンヒヒュッテはメンヒに登る人たちの山小屋ですが、普通のサラリーマンと思われる人たちがどんどんメンヒヒュッテから頂上からロープを抱え軽装で下山してくる光景が不思議な感じがします。メンヒヒュッテではスープをいただきましたが、隣の人が食べていたパンかジャガイモ、トマトなどにチーズを乗せてオーブンで焼いてあり、オプションで目玉焼きの乗った料理(ゲーゼシュニッテ)がうまそうでした。メニューで確認すると3山にちなんで「アイガー」「メンヒ」「ユングフラウ」という名前でバリエーションがありました。

 ちなみにアイガー最初の山小屋のミッテルレギ小屋はアイガー東山麓を初登頂した槇有恒さんが寄付したお金(建築費の50%寄付)で建てられたそうです。その後、ミッテルレギ小屋は新しく建て直され、古い小屋はアイガーグレッチャー駅からのアイガー北壁の横にそのまま展示されていました。

 次は槇有恒さん以来日本人に馴染みの深いグリンデルヴァルト駅にホテルを移ります。「女王陛下の007」の撮影でも有名になったシルトホルンにも行きましたが、なんと言っても今回はアイガー北壁の裾野をトレッキングする「アイガートレイル」がクライマックス。このコースは最近できたようですが、アイガー北壁のすぐ近くを歩くため、アイガー北壁を登頂している人まで見ることができます。

 西の3段目の小山の北壁に4名のロッククライマーがよじ登る姿が点のように見えましたが、叫び声とともに上2名、下2名のパーティーで下2名のうちひとつの点が縦から横になりました。あまりに小さな点ですから何があったかは分かりませんが、事故があったのだと思います。その後4人の点は見えなくなり、3時間のアイガートレイルを終わる頃にヘリコプターが西の頂上を含み3段目の小山の壁付近から救出しているような雰囲気。2回黒い点をヘリが運んでいました、、。詳しくは分かりませんが、近くで見るととても人間が登れる壁ではありません。

 ところが、1969年に6名の日本人(加藤滝男、今井通子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進、原勇)がアイガー北壁を最短垂直コースで突破。本当にすごいことですね。
 アイガートレイルを行い、真近に北壁を見たものしてとても考えることができませんが、日本人ならではのチームワークの成せる技でしょうか。

 アイガートレイルは「アルピグレン駅」で終わりですが、アイガー北壁を目指すクライマーの出発駅はここからが多いようです。アルピグレン駅には有名なケーゼシュニッテのお店(Berghaus Alpiglen)があり、アイガートレイルを思い出しながら、眼下のクリンデルワルドを眺めいただいたのですが、チーズたっぷりでおいしかったです。ラクレットチーズとかエメンタールチーズとかグリュエールチーズをうまく混ぜるのでしょうね。

 今回の旅でグリンデルヴァルトと日本人登山家は古くからつながりがあり日本人観光客が多くいるということが分かりましたが、さすがに団体旅行なのでトレッキングを行っている最中に日本人に会うことは少ないです。

 そしてもうひとつ学んだことがあります。
 アルプスでは30年前にクマが絶滅(スイスで最後に確認されたのは1904年という説もある)にしました。スイスの首都ベルン(アインシュタインが特殊相対性理論の論文を執筆した場所)にあるクマ公園にしかいません。

 第二次世界大戦前にベルン州を中心にクマ肉で作るハンバーガー「ベアバーガー」が普及。その後にチェーン展開されスイス全土に拡大。スイス中でクマが乱獲されたそうです。ベルン州の州旗がクマですから相当数のクマが殺されたと思います。おかげでトレッキング中にクマに遭遇ということもないのですが、、。

 スイスでは両生類の80%が絶滅危惧種(レッドリスト)とか。酪農優先でカエルなども川には住めなくなるのでしょうね。グリュイエールチーズは標高2000m以上の高地の草を食べた牛のミルクからでしか作らないので、森林限界を超えた山々にも牛はいますから、川の水はきれいではありません。
 東ヨーロッパからクマやオオカミが西ヨーロッパに浸透しているようですが、観光立国スイスにクマが戻ることはなさそうです。

 「システム」としては「知床のシステム」(知床五湖とキンキ)の方が上なのでしょうが、自然と経済との共生システムの難しさを感じますね。

 グリンデルヴァルトのホテルのTVで偶然「クマバーガー」の歴史を紹介する番組から得た情報ですが、現地に行くといろいろなことが勉強になります。
 休暇なのですが、次の仕事に役に立ちそうな情報でした。

 最後にアイガー北壁のマッシュルーム(西側の稜線)と呼ばれる岩からBASE Jumpを行った映像で「1800mの垂直の壁」の雰囲気をどうぞ。

※写真はClickで拡大、大英博物館のラムセスⅡ世像、ルツェルンの部屋の窓からのピラトゥス山、池に写る逆さアイガー北壁

2009/07/13

【Japan】海釣りの師匠とともに、はじめてのタチオウ釣り

      

 7/11日は赤坂の区役所までスロージョギング。45分ぐらいかかりましたから4kmぐらいでしょうか。東京都議会選挙の期日前投票を済ませて、帰りはウォーキング。昨年、外苑前の伊藤忠ビルの横に日本オラクルというIT企業のビルが建ち、南青山から夏の神宮外苑花火大会が見えなくなり地元住民は迷惑を蒙っているようですが、そのビルの1Fにはレクサスのシュールームがあります。ちょうどその前を歩いているときに向こうから豊田章男さんがご夫婦(たぶん)で歩いていました。最近トヨタの社長に就任されたばかりですが、シュールームが気になるようでキョロキョロと中を覗き込みながら通過していきました。シュールームの中に突然入って行き、販売員を励ますのかと思っていましたが、そうではなく通り過ぎただけです。大企業の社長になるとそれでいいのかも知れませんが、中小企業ですと本社が休日のときに働いてもらいありがとう。という気持ちを伝える経営者のいる会社が伸びる可能性が高いものです。

  7/12日は金沢八景の弁天屋からタチオウ釣りに出航です。タチウオ釣りははじめてですが、東京の釣りの師匠は得意の釣り目です。私の釣りの師匠は20数年前に取引先の営業だった人ですが、昨年20数年ぶりに東京で再開し、相模湾や東京湾の釣りを教えてもらっています。名古屋に住んでいるときは、名古屋の釣りの師匠がいて、彼は渓流でのフライフィッシィングが得意の釣り目で、いろいろと教えてもらいました。天然の長良川の鰻(驚異の美味しさ、長良川の天然鰻1Kg)を一緒に食べたのはこの名古屋の釣りの師匠とです。 東京の釣りの師匠は横浜に住み、相模湾、東京湾を自由に行き来し夏はタチウオ、マゴチにと毎週のように船釣りを楽しんでいます。私の釣りの師匠は二人とも、いささか「釣りバカ日誌」のハマちゃんのように仕事より釣りを優先する傾向がありますが、趣味の友人もいいものです。 釣果はタチウオが2匹、鯖がそれぞれ1匹づつ、ワイフはタチウオは坊主でした。なかなかあわせの難しい釣りなので、慣れるまでは釣果はボチボチでしょう。船長さんが気を使ってくれて常連さんから5匹のタチウオをお裾分けしてもらい、刺身、煮付けにしていただきました。柴漁港で買った活えびとマコガレイも刺身と魚ずくしの夕食です。残りは干物にしました。

 夏休みは蒸し暑い日本をオサラバしてスイスに行く予定ですが、スイスは何度訪れてもすばらしいところで、もし、将来金銭的に余裕があればレマン湖のほとりにでも別荘など欲しいものです。とりあえず、頑張って働くか! 

2009/06/29

【Japan】梅雨イサキと柴漁港の魚市場


 6/28日は金沢八景の弁天屋から梅雨イサキを釣に行きました。7時15分から夕刻4:00までの釣ですが、午後は雨がひどく3時にあがりました。釣果は20cm程度のイサキ1匹、15cmぐらいを2匹、その他はウリンボ十数匹でした。ウリンボとはイサキの子供で縞模様がイノシシの子供のウリ坊に似ているため名づけられました。ウリンボでもこの時期脂が乗っていて片身ひと切れの刺身や干物に良いそうですが、来年のお楽しみということで放流しました。大きいものはすべてワイフの釣果で、私はウリンボのみの寂しい釣果です。 弁天屋で近くの柴漁港に日曜祝日の午後1:30から一般客も朝取れの魚を購入できる市場ができると聞いたので、帰り道に立ち寄り、ホウボウ、マコガレイ、コチなどを買い込み、夕食にいただきました。まずはイサキとホウボウは刺身、カレイは煮付け、コチは塩焼き。ホウボウはさっぱりした白身でイサキの味も濃くおいしい刺身です。新鮮なカレイの煮付けは最上質の肉質でうまい。コチもおいしい。オマケにもらった小さなイカの食感がコリッコリでまた最高。最後に魚の頭や骨をホールトマトで煮込み、少量のパスタで〆ました。弁天屋の帰りに柴漁港に立ち寄り魚種を補うコースも楽しいです。釣師には笑われるかもしれませんが、、。 次回は太刀魚に挑戦するつもりです。       

【Japan】梅窓院の郡上おどり in 青山と香り高い長良川の天然若鮎


 6/27日は久しぶりに「レスラー」という映画を観ました。ミッキー・ロークが主演で自身の人生とオーバーラップしているためか演技が自然で、映像に哀愁が漂っています。若いころ人気プロレスラーだったが、今は50代でかろうじてプロレスを続けている主人公。家族にも捨てられ、孤独な人生もすべて自業自得。心臓のバイパス手術でプロレスも出来なくなり、スーパーマーケットの惣菜コーナーで客相手に働く毎日。しかし、プロレスしか生きる道が見出せず、医者からは止められるリングに立ち、コーナーロープから飛ひ降りる得意技を出したところでエンド。私には想像していたより面白い映画ではなかったのですが、自業自得という雰囲気が全編に渡って漂うミッキー・ロークの演技は良かったと思います。私も今年50歳になりますが、ちょっとした習慣、考え方、性格などにより人生は大きく違ってくるのかも知れません。次は真逆の感想を抱くかも知れませんが、「剣岳」を観てみたいと思います。 夕方は浴衣に着替え下駄を履いて南青山の梅窓院の「郡上踊り in 青山」に行って来ました。毎年の恒例行事で6月に解禁したばかりの長良川の天然の和鮎の塩焼きが食べれ、故郷の盆踊りを満喫できます。昨年は雨で浴衣もびしょびしょになりましたが、土曜日は晴れて風が気持ちよく吹いていました。久しぶりに「春駒」を踊り、気持ちよい汗をかきました。以前にこのblogでも紹介した「青山の旗」もありました(笑)。 盆踊りは涼しい季節か涼しい場所でないと人が多いので不快感が増すと思いますが、6月下旬で風もあり気持ちよく過ごせ、来年も参加したいと思います。
      

2009/06/22

【Japan】驚異の美味しさ、長良川の天然鰻(1Kg)




 これは本人にすると少し長い物語なのですが、20数年前に名古屋に住んでいたときに、世話になった友人に「機会があったら長良川の天然鰻を食べさせる」、という約束をしました。長良川は鮎やアマゴのいる清流ですが、私の故郷の岐阜県郡上市白鳥町ではたまに天然の鰻が釣れます。

 釣り方は大きな針に小魚をつけ、太い糸で鰻の通りそうなところころに夕刻仕掛け(数十箇所)ておき、早朝に引き上げるというものです。子供の頃に父親がこの方法(「置き釣」といいます)で釣った鰻を家族で食べたのですが、あまりにもおいしかったので記憶に鮮明においしさが残っていて、ついつい約束をしてしまったのです。

 以来、酒を飲むたびに天然鰻の約束の話になるのですが、田舎の友人に尋ねても現在はなかなか釣れるものでないため「難しい」の一言。以来20数年が経過してしまったのです。たまたま先月病院のお見舞いで田舎に帰ったとき居酒屋でバッタリと幼馴染の同級生の酒屋に会いました。さっそく鰻の話しを切り出しましたが、彼は魚釣りがうまく、鰻を釣る釣り仲間がいることを教えてくれました。その友人はある店に鰻を卸していると。すぐに紹介をしてもらい、鰻が釣れたら東京から新幹線に乗り食べに行くと連絡し、待っていましたら6/15日に

「1kgの鰻が釣れたのでどうしますか?」

と電話をもらいました。喜び勇んで友人に急遽有給をとってもらい6/20日に無事「長良川の天然の鰻」を食べることができたのです。

 関東は鰻を蒸しますが、岐阜県は関西と同様に直火で焼きます。サクサクした表面と身の水分加減、清流の鰻なので利根川などの天然鰻と違い川臭さもなく、タレも甘くなくさらっとしていて、こんなにうまい鰻ははじめて食べたと皆大喜びです。半身は白焼きでわさび醤油か塩、半身はタレでいただきました。通常のうな丼で特上は300gぐらいの鰻を使いますが、今回の鰻は1kgの大物。大きいから大味かというと、そこが天然鰻で脂もしつこくなく、身も何層にもしまっていて完璧なのです。

 長良川というと岐阜の鵜飼の鮎が有名ですが、上流のこの天然鰻のポテンシャルは半端ないおいしさです。ちなみに同じ岐阜県郡上市に粥川という村があり、ここは鰻を一切食べない村で天然記念物とし保護しているので川は鰻だらけです。

 関東の人は焼き方で好みが違う人もいるでしょうが、関西の人は飛びつくうまさだと思います。昭和天皇の大好物だった野田岩の鰻がもう食べれなくなってしまったかも知れない...

 これで古い友人との約束は果たせたのでまずはひと安心です。
 最低でも8年(鰻の寿命は5年から15年)は生きないと1kgにはならないそうなので、このうなぎに感謝感謝です。

2009/06/08

【Japan】奥鬼怒温泉郷 加仁湯、サンショウウオの天ぷら!


 6/6、7日と奥鬼怒温泉郷に行って来ました。毎年6月の初旬は結婚記念日で国内旅行をしていますが、去年は知床(知床五湖とキンキ)、今年は東北のひなびた銀山温泉でもと、石垣島(オープンウォーターからアドバンスへ、石垣島で宇宙船のようなコブシメに遭遇!)から帰ったらすぐに予約をしたのですが、行きたい旅館が満室。急遽、関東の近場で奥鬼怒温泉郷となった訳です。奥鬼怒温泉郷は東武鉄道の鬼怒川温泉駅から奥鬼怒温泉郷の入り口の女夫渕温泉まで1時間半かかり、日光国立公園の中にあります。鬼怒川温泉が栃木県の東側ですが、奥鬼怒温泉郷は西側になり、かなり距離があります。そこには4件の温泉宿がありますが、もともとは登山者向けの山小屋だったようです。女夫渕温泉からは旅館の迎えのバスが来てさらに30分ですが、送迎バスでなくそこからはトレッキングで森林浴を楽しみました。前日が雨だったので緑が美しく、マイナスイオンから脳内はアルファー波で満たされます。6kmの山道を1時間半で歩き、日帰り入浴でもしようと、一番山奥の日光沢温泉まで歩きました。ここは鬼怒沼の登山口の山小屋というたたずまいの温泉宿で、玄関に柴犬が座ってお出迎えしてくれました(笑)。

  日帰り入浴は混浴とのことなので諦めて柴犬としばらく遊び、予約している加仁湯へチェックイン。さっそく温泉に入りましたが、ここは混浴と普通の温泉があり、湯の種類も5種類あります。さすがに気持ちの良い温泉でした。食事は山菜や岩魚などでいわゆる山の温泉の料理ですが、サンショウウオの天ぷらや熊肉、鹿肉など奥深い山の味も別注で頼めます。今回はサンショウウオの天ぷらを食べてみました。子供の頃にオオサンショウオは長良川でたまに見かけていましたが、天然記念物でしたので食べることはありませんでした。その仲間のサンショウオを食べるのですから、かなりの抵抗感がありましたが、1匹だけ食べてみました。特別にこれからも食べたいものではありません(笑)。

 鬼怒川の源流が旅館の横を通り、4階の私たちの部屋には川のせせらぎが聞こえ、ツバメが飛び交い、美しい日本の原風景に満足しました。

 大きな旅館なので夕食、朝食も大広間ですが、私たちより一回り上の団塊の世代の人がたくさんいました。特に山登りが好きな世代だからかも知れませんが、トレッキングに行くと団塊の世代の人はいつも集団で行動しています。たまに翌日のスケジュールをリーダーらしい人が読み、参加者がうなずいている光景を目にします。これはスイスに行っても同じで、グリンデルワルトなどは団塊の世代の人だらけです。できることならこういうところでは静かにしていて欲しいのですが、いつもどこでも騒がしいのは集団だからなのかも知れません。たまに辟易します。

 7月の下旬は夏休みにアイガー北壁周辺のトレッキングでスイスのグリンデルワルト、10月下旬には今回予約できなかった銀山温泉を予約しましたが、どうか集団の日本人のいない静かな休暇が過ごせますように。

2009/06/05

【USA】アッサラーム・アライクムとオバマさん


 オバマ大統領が2009年6月4日にエジプトのカイロ大学で講演し、最初の挨拶で、

「アッサラーム・アライクム」

と言っていましたが、オバマさんは大丈夫だろうか。

 1年前の2008年の同じく6月の選挙戦のときに、AIPACというロビー団体での発言は以下のようでした。ラビンさん(パレスチナの水問題とオスロー合意)のこともあるので少し心配ですね。

■「エルサレムはイスラエルの首都」とオバマ候補■

 次のアメリカ大統領選挙で民主党候補となるバラク・オバマ氏は、AIPACの会合で演説、「エルサレムは、分割されることなく、イスラエルの首都でありつづける」と述べた。「私は断言する。イスラエルの安全保障は絶対不可侵だ。パレスチナ人とのいかなる合意も、ユダヤ国家としてのイスラエル承認、その防衛可能な国境を確保するものでなければならない」と強調、イスラエルのエルサレム地区併合支持を表明した。AIPACに招かれたオバマ氏のライバル、ヒラリー・クリントン上院議員は、「オバマは必ずイスラエルのよき友となる」と語った。オルメルト首相は、オバマ候補の演説について、「力強い発言に感銘を受けた」とコメント。AIPACでは、4日に、共和党大統領候補のジョン・マケイン上院議員が、エルサレム=イスラエルの首都論支持を表明している。一方、アッバース大統領は、記者団に対し、「このステートメントはきっぱり拒否する。世界の人々はエルサレムが1967年に占領された土地であることを知っている。エルサレムを首都としないようなパレスチナ国家は受け入れられない」と語った。また、ガザ地区ハマースの報道官は、「オバマもマケインもアラブ=イスラエル紛争に関して、われわれと敵対していることで、何の変わりもない」と述べた。(6/5 Haaretz、Reuters)