2010/10/25

【Japan】和良の古田等さんの名物中華 開化亭

写真はJR岐阜駅の織田信長像


  先週末はワイフの誕生日のお祝いでどこかレストランに行こうと、東京のフレンチのシェフの間で有名な岐阜の開化亭という四川料理の店に行って来ました。一般的にフレンチのシェフはフランスのミシュラン三星レストランで働いていたとか、有名シェフの下で働いていたとかで「箔が付く」ということなのでしょうが、この開化亭は逆に「東京から日本の星付きレストランのシェフが岐阜に食べに行く」ということで有名な店なのです。私たちも「そんなにおいしいのか」という想像をかきたてられて、わざわざ新幹線で岐阜に行ったのでした。

  岐阜には学生時代にアルバイトでお世話になったMさんが住んでおられ、少し早めに岐阜に着き、2時間ほど近況の情報交換。今年で72歳とは思えない頭の冴えようで、ワイフ曰く「話が面白い」とのことで、時間を忘れ話し込んでしまいました。昔話を懐かしむことはもちろんですが、新しい話も一杯で、楽しい時間を過ごさせていただきました。

  開化亭ではコースをいただきましたが、その中に「鮎の春巻き」を入れてもらいました。季節は外れているので落鮎かと思いましたが、初夏から夏場の鮎を利用しているようです。しかも、「和良川の鮎」とのこと。シェフの吉田さんが「郡上市和良村」のご出身だからですが、私は「郡上市白鳥町」出身なので「和良川より長良川の上流の鮎の方がおいしいはず。長良川は河口堰があるけど海からも遡上した本当の天然鮎がいる!」と思いつつ春巻きを口にしました。開化亭の鮎の春巻きを食べた人は口を揃えておいしいと言い、たくさんのblogにその料理法や味が紹介されていますが、本当においしい。ナリサワのオーナーシェフの成澤さんは近所の情報誌に「和良川の鮎は日本の財産だ」と語っていましたが、素材を活かす創造力こそが日本の財産なのかも知れません。その他のフカヒレステーキ、アワビ、鴨、キャビアなどの食材を利用した料理はいずれも素材を引き立てる料理で驚きです。最後に四川料理として坦々麺、ワイフは麻婆豆腐をいただきましたが、これは開化亭よりおいしい店が東京にはいくつかあります。開化亭は四川料理らしからぬ中華というより、中華の調味料を使ったフレンチなのです。これで有名フレンチシェフが岐阜へ訪問する理由が分かりました。
(東京のシェフがパクりそう、、)

  今回は岐阜のホテルはどこも満室で名古屋へ電車で戻り予約していた錦のホテルへチェックインしました。久しぶりの名古屋です。Mさんに紹介していただいた今池のバー「酒肆蘭燈(シュシランタン)」へ。老舗のバーらしく落ち着いた雰囲気。「サイドカー」「グラスホッパー」を注文、氷を丁寧にカットするのが印象的です。バーでは野球の話題が一杯でしたが、中日に何か面倒なことでもあったのでしょうか。

  翌日は岩倉市にひとり住いの息子をレンタカーで訪問。風邪で寝込んでいたらしい。近所の木曽路ですき焼きをたらふく食べ栄養補給。これで風邪も直ることでしょう。

  夕刻には東京に到着「東京→岐阜→名古屋の錦→名古屋の今池→岩倉→東京」と「人と味」をめぐる旅でした。
                 

2010/10/19

【Japan】秋の草津とバリアフリーの宿「望雲」


 週末の15日、16日と家族で草津温泉に行って来ました。2008年11月の初旬に草津白根山(10月の草津白根山は冬)にトレッキングに行ったことがありますが、1週間の差で紅葉も終わり、白根山は雪だったことから、今回は3ヶ月ほど前に10月中旬に宿を予約しました。草津温泉全般に言えることですが、バリアフリーの宿はほとんどありません。今回は部屋に温泉風呂があり、簡易ベット用意してくれるということで、望雲を選びましたが、温泉街自体が坂道なので、バリアフリーに対応するという考えが薄いのかも知れません。 しかし、草津温泉のお湯は最高で、この宿は「万代鉱源泉」「西の河原源泉」の2種類が楽しめます。個人的には西の河原の源泉が好きですが、酸性濃度は万代鉱の方が強いようです。前回は共同浴場の「白旗の湯」(源泉 白旗)に入りましたから、今までに「白旗」「西の河原」「万代鉱」の3つの源泉に入ったことになります。その他、現在は利用されていないものも含め「湯畑」「綿の湯」「熱の湯」「ゆりかご橋」「地蔵」「煮川」「湯釜」「香草」「若乃湯」「君子の湯」とあるらしい。 翌日は草津白根山のドライブでしたが、綺麗な紅葉も車中から見ることができました。 いつもはトレッキングついでの温泉が多く、温泉のみの小旅行は久しぶりのことですが、これから年に1,2回はどこかの温泉に家族旅行を行うつもりです。
          

2010/10/13

【Japan】佐島のカワハギから久里浜の甘鯛へ


 先週は3連休だったので久しぶりに海釣りに行こうと、中潮でしたが、天気の良い11日にレンタカーを借りて三浦半島に出かけました。早朝5時に出発し佐島のつね丸という船宿に着いたのが、午前6:30。席取りをしようとすると、カワハギ船はもう満席。佐島の近隣のカワハギ船をあたっていましたが、どこも満席。わざわざレンタカーを2週間前に予約し、朝の4時半に起きて、7時半の出船の1時間前に入ったのに、カワハギ釣りができないなんて、、。こんなことははじめてです。船宿は天候に影響されるので予約制でなく、今まで当日に行けば必ず乗船できていました。3連休で土日は雨、海風も波も高かったので、晴れた月曜日に集中した訳です。船宿の入り口でクーラーボックスを抱え、ワイフと二人で呆然としていると、小声で「今からなら三浦半島の久里浜に行けば、あそこはカワハギの船宿が3件あり、8時出航だから間に合う」と乗船できるおじさんが教えてくれました。その言葉を信じ、カーナビで「久里浜」を設定。20分ほどで到着すると「ペリー記念館」(ペリーは久里浜から上陸した)の看板を見かけました。ゆっくり記念館のことなど考える余裕もなく、道を聞きつつ船宿発見。そのうちのやまてん丸で 「カワハギ船 間に合いますか?」 「カワハギは一杯だよ」 「えっ・・・」 久里浜まで来たのに。どこの船宿もカワハギは満杯の様子。やまてん丸のおばさんに「甘鯛なら空きがある」と言われたので、この際、はじめてだけど甘鯛でもやってみるかと挑戦してみました。深さ70メートルに船宿で借りた手動リールでオキアミを落とします。深さ70メートルなのに手動リールなのです。何度も餌を変えたり、確認したりするのも大変。なんとか写真の1匹+小甘鯛を釣り上げ坊主を免れましたが、ワイフは外道のトラギスに好かれ、坊主。帰宅後、甘鯛は刺身でいただきましたが、甘みがあり水分の多い身なので、おそらく干物にすると凝縮されおいしい種類の魚だと思います。甘鯛釣りを行うには電動リールが必要ですが、釣果大量の場合は干物にしてみたいものです。 久しぶりの海釣り、しかもドタバタ、そして手動リールで深場へ、釣果は・・・(笑)。 楽しい休日でした。
               

2010/09/30

【Japan】寒さに震える夏の至仏山と萩原朔太郎(前橋文学館)



 9/25日は尾瀬の至仏山をトレッキングしました。以前に尾瀬でトレッキング(5月でも雪があり、アイゼンが必要な三平峠)を行ったときに尾瀬に2000メートル級の至物山があることを知り、ここはいつかは登頂したいと考えていたところです。数か月前に予定を組んで、頂上で飲む味噌汁のため山用の魔法瓶を買い込み、数週間前から朝のウォーキングで階段を多くしたりして準備していました。ヨーロッパ・アルプスのアルプのように森林限界を超えた山の風景が好きなため、2000メートルを超える山に1年に1度は登りたいと毎年この時期は恒例のトレッキング(昨年は白山:白山の雲海に浮かぶ素晴らしい朝日)を楽しんでいます。

 天気予報では25日は雨後晴れでしたが、レンタカーとバスを乗り継ぎ鳩待峠に着いたのが9時半頃。登山口は細かい霧で視界はまったくなく、晴れを祈りながら歩きました。小至仏山に差し掛かるあたりから晴れ間が見えて、尾瀬ケ原が一望できたときは感動しました(苦労を重ねて展望が拓けたような気分)。さらに山頂まで岩場を登りましたが、風が強く、吐く息が白くなるほどの寒さです(展望は拓けたが風当たりが強い)。ワイフは馴れない岩場で足がかなりつらそうでしたが、二人で山頂に着いたのは午後1時半ぐらいでした。山頂は360度の眺望で写真のように尾瀬ケ原から新潟の魚沼、福島、栃木の山々が一望できます。おにぎりを1つだけ食べて、小至仏山の裾野のイスのある休憩所まで戻り、そこでゆっくりと味噌汁をいただきました。適度な塩分とビタミンB1で疲れがとれます。鳩待峠に着いたのは午後4時を過ぎていましたが、最終のバスは5時10分まであるので、いつもの岩魚の炉端で熱燗を一杯。ここの岩魚はおいしいのです。えらを取った岩魚を遠火でゆっくりと干すように焼き水分を飛ばすのですがえらがないので頭にも火が通り、そのままかぶりつくと香ばしい。サービスでつく大根、白菜、胡瓜の漬け物も乳酸菌からの酸味が絶妙。この炉端は尾瀬のもうひとつのたのしみです。

 毎回泊まる宿屋は「ふきあげ」というところですが、この宿の弱アルカリの温泉が気持よく、山菜料理が抜群においしいのです。観光地の旅館の料理は山郷でも無理に刺身を出したり、天ぷらが揚げたてでなかったりですが、ここは地のものばかりです。山菜は春に取れたものを塩漬けにしたものですが、料理がおいしい。蕗のきんぴらなど感動しました。作り方を教ったので、日陰のやわらかい蕗が手に入ったら作ってみようと思います。

 翌日は朝食後に宿を後にして、道路わきの朝市で野菜を購入。ナス、胡瓜、カボチャなどですが、野菜本来の味に驚き、とうもろこしの甘味に驚きと、昼と夜の寒暖の激しい尾瀬の野菜はとてつもなくおいしいのです。
帰宅後、すぐになくなってしまい、もっとたくさん買うべきだったと後悔しました。

 レンタカーだったので、ドライブついでに尾瀬から赤城山を超え前橋に入りました。前橋は萩原朔太郎の故郷。そこで前橋文学館を訪問。高校時代に読んだ「月に吠える」などの詩、朔太郎の歴史などが展示してあります。朔太郎は東京では世田谷に住んでいたようですが、近所に芥川龍之介、室生犀星なども住んでいました。当時の世田谷はシリコンバレーのように文化人が集積していたようです。
         

2010/09/16

【Japan】ヴェルニー記念館と柴漁港


 週末の9/12日は群馬郡権田村の小栗上野介忠順の終焉の地(榛名湖周辺と小栗上野介忠順)を訪れた続きで、横須賀製鉄所の跡地を訪れました。幕末の動乱の最中にレオンス・ヴェルニーさんというフランス人技師がプロジェクトマネジャーで建設されたものです。横須賀駅のすぐ近くにヴェルニー公園、ヴェルニー記念館があります。オランダ製の巨大なスチームハンマーが展示されていますが、窓からは海上自衛隊の船や潜水艦が見え、造船や修理を目的にしたヴェルニーさんの意思はそのまま引き継がれているようです。灯台建設や、長崎造船所の建設にも携われたようです。一緒に働いたポール・ブリュナ技師は富岡製糸場を設計し、日本の輸出産業の基礎を築きあげました。

 当時、薩摩からすれば幕府はフランスを、幕府からすれば薩摩はイギリスをと、英仏の対立から日本が分割コロニーになるのではないかと危惧はあったと思いますが、少なくともヴェルニーさんたちの仕事をみると、日本が自前の運営能力を持つまでの水先案内人の使命を全うしています。

 その後、金沢八景でお鮨をいただき、柴漁港の直売所(梅雨イサキと柴漁港の魚市場)で、ヒラメ、カワハギ、アナゴ、小イカ、まめ鯛を買い込み、ヒラメの半身は刺身、残りはコブ〆で翌日へ、カワハギは刺身を肝醤油で、アナゴ、小イカは天ぷら、まめ鯛は干物と、おいしくいただきました。
          

2010/08/20

【Japan】東京のお盆と花火


 一般的に8月15日はお盆ですが、江戸時代から地方出身者が多いため、7月15日に江戸・東京でお盆を済ませ、故郷に帰り8月15日にもお盆を行うという習慣になったようです。今年も8月15日前後のお盆休みの東京は人や車が少なく過ごしやすい街になりました。

 お盆前の8月14日は晴海埠頭で「東京湾大華火祭」があり、お盆後の8月19日には神宮球場で「神宮外苑花火大会」がありました。前者は自宅の南側のベランダから六本木ヒルズで遮られ左半分、後者は西側のベランダから青山ザ・タワーに遮られ左半分の花火しか見えませんでしたが、花火は大きな爆発音とともに光り、上空から花火を見る企画でヘリコプターが頭上を旋回。 目を瞑り、ここが東京でなく死海周辺の国々にいると想像すると、花火とヘリコプターの音はまるで戦場です。8月15日は「終戦記念日」と名付けたいう敗戦の日。その日、外苑前に残った建物はNTTだけ、渋谷まで何もかも崩壊し見渡せたと。赤坂も溜池も焼け野原。江戸時代から東京に在るお寺の住職に伺った話です。 1959年生まれの私には戦争体験はありません。体験を語ることができなくとも、私たちの年代だからこそ未来に対して何かできることがあるのではないか...

 暑い夏ももう少しで一息つけそうです。
       

2010/08/11

【Coffee Break】スイッチのONとOFFと高杉晋作


 今週はお盆休みの企業が多く少し暇なので、日本の歴史、特にNHKの龍馬伝で描かれる明治維新について考えてみました。明治維新は社会体制を転換する政権交代だったのでしょうが、現状に不満のある人たちの中で、誰がスイッチをONにしたのでしょうか。「明治体制」←「明治維新」←「大政奉還」←「薩長連合」←「長州討幕へ」←「元治の内乱(功山寺挙兵)」←「松下村塾」という流れの中で活躍した人はたくさんいたと思いますが、松下村塾出身の高杉晋作がクーデターを起こし長州藩の主流を「親幕府から統幕」にひっくり返していないことには明治維新は始まりません(1つの藩に2つの体制があった)。薩摩が単独では何もできなかったと思います。高杉晋作は「たったひとりで挙兵」し、明治維新のスイッチがONとなりました。

 そして、スイッチをOFFにしたのは大政奉還を行った徳川慶喜でしょう。OFFにせず、政権交代はなく、既存の体制をバージョンアップしようと、徳川慶喜に頼み込み解任された小栗上野介(小栗上野介の口癖)。しかし明治は小栗のグランドデザインを採用、そして製造業立国へ。途中の様々な出来事は自然な流れの中での出来事のように感じますが、最初の高杉晋作のONがなければ何事もはじまらなかった訳です。最初にONをした人は、往々にしてその使命はONをすることであり、物事が達成される前に消えてなくなるものですが、明治維新のスイッチをONにしたのは高杉晋作の「元治の内乱」(功山寺挙兵)、明治体制のスイッチをONにしたのは小栗上野介の「横須賀造船所」でしょう。

 高杉と小栗は面識があったかどうかは知りませんが、たまには日本の歴史を考えてみるのも面白いものですね。
    

2010/08/02

【Japan】福井の半夏生鯖もヘシコもノルウェー産とは複雑な気分


 週末に財布を買うために久しぶりにソメスサドルに行きました。ソメスは日本で唯一の馬具メーカーで、フランスのエルメスのように革製品を製作・販売しています。海外ブランドのように名前は有名ではありませんが、丁寧な仕上がりなので、カバンなどはソメスのものを利用しています。ソメスに行く途中に福井県のアンテナショップを見つけ、店内を覗いてみることにしました。福井の名物と言えば「焼鯖」とイメージがあるのですが、大野市は7月2日の半夏生(はんげしょう)に焼鯖を食べる習慣があるらしく「半夏生鯖」が売っていました。福井県大野市は故郷の隣村なので、懐かしくさっそく購入。自宅でパッケージを見て驚きですが、鯖の産地が「ノルウェー」。今まで「越前鯖」というと越前(日本海)で取れた鯖とずっと思っていたものが、「ノルウェー産」だったのです。少しショック。日本海では鯖が取れなくなっていたなんて、、。へしこもノルウェー産です。ノルウェー産がおいしいことは確かですが、複雑な気分でした。         

2010/07/20

【Japan】実にうまい長良川の天然鰻と下呂温泉

 

 
 



  7/16日は休暇をとり、家族で故郷の墓掃除と墓参りに行きました。ついでに長良川の天然鰻を頼んであった(3日前にとれたと電話あり!)ので、白焼きと蒲焼でいただきました。相変わらずのすっきりした脂の鰻で、長良川の清流で何年も育った味です。去年は1kgの鰻(驚異の美味しさ、長良川の天然鰻(1Kg))でしたが、今年は500gと400gの2匹を3人でいただきました。母が鰻をそれほど食べないため、二人はかなり満腹です。

 レンタカーで下呂温泉まで行き、久しぶりに柔らかい下呂のお湯に浸りました。宿泊3日前に予約したのですが、平日ということもありそれほどの混雑もなく、ゆっくりとできました。今年は新幹線で東京から岐阜羽島、そしてレンタカーでしたが、来年は東京から長野県、レンタカーのコースで長野のどこかの温泉。あるいは東京から飛行機で富山、レンタカーのコースで富山のどこかの温泉と、墓掃除ついでに 「長良川の天然鰻」+「温泉」 のコースを楽しみたいと思います。 結局、7/15日の実践アラビア語講座はサボリました。2回連続です。そして、3回目の7/22日もサボリそうです。 偶然ですが、出版社へのフランスやセネガルの夏休みが終る8末まで授業料は支払ってあり、それまでに、フランス語の手紙の返事がなければ電子出版プロジェクトもこのやり方で進めることは難しくなります。7,8月の授業料2万円は呑み代に使ったと思い、アラビア語の勉強はここで一旦休止し、電子出版プロジェクトは老後の楽しみにしても良いかな、と考えています。やり出せばすぐに終わってしまうような気もしますし...

2010/05/31

【Japan】榛名湖周辺と小栗上野介忠順


 5/29、30は群馬県の榛名湖周辺にトレッキングに行きました。天候が今ひとつでしたが、新緑の中の酸素一杯の山道を歩くと、爽やかな気分になります。天神峠からヤセオネ峠(関東ふれあいの道)までの3、4時間ぐらいコースですが、木の階段が長く厳しく、今日はふくら脛がかなり痛いです。その後、バスで伊香保温泉へ。毎年、この季節は結婚記念日で国内の近場の温泉に行っていますが、今年は茶褐色の源泉かけ流しで有名な岸権旅館に泊まりました。霧が多く眺望は今ひとつでしたが、温泉でトレッキングの疲れが癒されます。

 翌日はバスで高崎まで戻り、レンタカーで小栗上野介忠順(小栗上野介の口癖)の群馬郡権田村へ。まずは国道406号線から鳥川(カラスガワ)の岸辺にある小栗処刑の地から、小栗の住居跡に行きました。住居は急な山道を上がり、少し下った坂の中腹にありますが、ひそやかな場所に屋敷の跡地はあります。私学校はここに建設するつもりだったのでしょう。そして、小栗の墓のある東善寺へ。小栗は鳥川の岸辺で処刑され、首級が館林へ運ばれ首実検の後埋められたままになっているのを、中島三左衛門(小栗家族を会津へ助け出した村人)らは奪い返しに行きました。かなり苦労したようですが、1周忌に館林の法輪寺境内から盗み出し、東善寺裏山の胴体と一緒にしました。これを「お首級(くび)迎え」と呼んでいます。小栗は子どもがなかなか授からず、後年に女の子を授かったのですが、養子として又一忠道を迎えました。悲しいことに養子又一忠道も鳥川で小栗とともに処刑され、東善寺の小栗の墓の隣に眠っています。司馬遼太郎が明治の父と呼ぶとか、横須賀造船所を建設したとか、功績は大切なことですが、権田村の村人に偲ばれていることが、何よりすばらしい。苔生した墓には真新しいいくつかの線香の燃え残し、そして展示場には小栗がアメリカから持ち帰った「マイナスネジ」が展示されていました。

 権田村からの小栗の歴史をまとめた「幕末開明の人 小栗上野介」(東善寺刊)が販売されており、当時の権田村の人たちと小栗の関わりをもう少し知りたいと思い購入しました。
                       

2010/04/14

【Japan】小栗上野介の口癖


 木村直巳の天涯の武士―幕臣小栗上野介という漫画を読んで、非常に面白かったので、記録に残しておきたく感想文をblogに載せます。私が小栗上野介に興味を持ったのは、高校時代に柴田錬三郎のエッセイ(生きざま)で、勝海舟と小栗上野介を比べ、勝海舟は明治まで生き残り自己宣伝書(氷川清話、海舟座談)をせっせと書き上げたのに、小栗は最後まで幕臣として筋を通したとあり、そんな人もいるんだと思った程度でした。なぜなら、歴史の教科書に小栗上野介は出てこないから彼の名前すら知らなかったのです。勝てば官軍ということなのでしょうが、小栗のことを知れば知るほど、その先見性に驚かされます。現在の日本の製造業がグローバル競争に関われるベースになった横須賀造船所の建設、横須賀造船所の建設以前に勝海舟と共に渡米しワシントン海軍工廠で「ネジ」を拾い持ち帰っているのです。おそらくマイナスのネジだと思いますが、ネジや金型、鋳造技術は製造業のベーステクノロジーとなります。ちなみに本田宗一郎さんがプラスのネジをイタリア視察で持ち帰ったことで、ネジを締める工程が自動化ができ、日本の製造業の生産性が一気にアップしたと、藤沢武夫さんは語っています(経営に終りはない)。

 その他、小栗上野介は現在の日本の基礎になる多くの計画(反射炉・造船所・火薬製造所・大砲製作所などの建設、後の連合艦隊に通じる主要6港湾に六備連合艦隊構想、洋式軍制、外国馬の導入、鉱山開発、商社や商工会議所、外国語・造船の学校設立、新聞発行、電信事業、横浜~江戸間の鉄道、ガス灯、郵便局、株式簿記、休日・昇進・昇給などの近代雇用体制の構築、酒類等への課税などなど)を用意していました。それは後に明治政府により実行されますが、発想は小栗のものです。

 小栗の性格を表す口癖は、

父母が大病で望みがなくても、もしや治るかと医薬の手当を止めないのが子の心情だ

と、幕臣としての「生きざま」を貫き通した人です。

 今年のNHKドラマは龍馬伝。勝海舟も出演しますが、小栗上野介は出演するでしょうか。
 小栗は日本国の幕臣として筋の通った「生きざま」であったからこそ、勝は自分の立場を「徳川」と「外へ」模索せざるを得なかった。
 
 もう一度、日本の未来を見据えた「新時代の横須賀造船所」のようなものを、どこかに作るべきです。

 今年は群馬県高崎市の小栗上野介の墓のある東善寺に訪れるつもりです。
                

2010/02/08

【Spain】ピカソと鳩と父親の関係に深い感動


 2月3、4、5、6とスペインのアンダルシア地方に行ってきました。4、5日は仕事でマルベーラという高級リゾート地のホテルでしたが、3日はマラガのピカソの生家とピカソ博物館、6日はミハスへと、仕事を挟んで時間のあるときに観光をしました。マルベーラはイギリス人の金持ちとアラブの王族などの保養地で、バブリーな建物が一杯です。スペインの失業率は20%に近づき、25歳以下の若者は43.8%(2009年11月)に達していますが、まだまだ保養地には人が一杯です。遠くに北アフリカの陸地が霞んで見え、冬でも20℃と暖かさから、寒いイギリスにとっては冬の保養地として、投資対象だったのでしょう。

 マラガのピカソの生家は小さな美術館になっており、ピカソの陶器や絵が飾られていましたが、1枚だけピカソの父親の絵が飾ってありました。ピカソの父親は画家だったようですが、子供のころに書いたピカソの書いた絵を見て、自分には才能がないと画家を辞めてしまいました。その父の絵は「鳩の絵」。写実画ですが、リアルな鳩で今にも動き出しそうです。ピカソの鳩好きは有名ですが、自宅の前の公園にも鳩が一杯。ピカソと画家の父、そして鳩。

 その後にピカソ美術館に行き、家族が保存していたピカソの絵や陶器などを観ましたが、「Mother and child」(1921-1922)という作品の前で思わず立ち止まってしまいました。この絵は女性とその子供絵ですが、母の顔の半分が父に観えるのです。右手は母、左手は父の手で、二人の手に子どもが抱かれているように観える。これには感動しました。実際の絵の大きさや筆のタッチからでないと想像できませんが、芸術とはこういうものなのかと、、。見学後に最後にもう一度観ても、同じ感動です。ピカソはアトリエには妻さえ入れなかったようですが、鳩は特別に入れていたようです。そしてこの「Mother and child」の構図。この2つのことが繋がり、魂が感動してしまったのです。今回の旅は出張でしたが、仕事は別にしてピカソの心に触れ、本当に良かった。

 最終日にはミハスの白い町並みを見学し、マラガ飛行場で帰国しました。

2010/01/25

【Japan】すし匠系列でNo1、西麻布のすし匠 まさ


 金曜日は久しぶりの寿司。リーマンショック以後は高めのお店(とはいえ、ひとり2万円以上というのが高めの感覚)に行くことは少なくなりました。特に給与が減ったわけでもないのに、気分的に高そうな店は控えてしまいます。金曜日は特に理由がないのですが、久しぶりに高そうな寿司屋へ。西麻布にある「すし匠 まさ」は「すし匠の系列でNo1」と言う人もいるぐらいの店で、3回目の来訪でした。あまり詳しく知りませんが、「九兵衛の系列」とか「すし匠の系列」とか、修行した店の出ところでそう呼ばれるようです。

 「すし匠 まさ」は手間の掛かった仕事を行う店で、素材そのままというより、「炙り」「昆布シメ」「西京味噌漬け」などで、魚をおいしくいただけます。ただ、海釣りを憶えてから、釣りたての魚の刺身、釣りたての魚を味噌漬けや干物にして食べる習慣がついてから、素材そのものの持つおいしさを舌が憶えてしまったのです。これはある意味不幸です。「すし匠 まさ」の手間の掛かったおいしい寿司ネタもいいのですが、素材のおいしさでも味わいたいと思ってしまうのです。もちろん、手間の掛かった、例えば、カラスミの西京漬けなどは絶品で、言葉も出ない程の味わいなのですが、、。
         

2009/11/02

【Japan】更科蕎麦とひとりひとりの質問に答えるダライ・ラマ14世


 東京で蕎麦を食べるときはいつも麻布十番の更科堀井で食べるのですが、ここは全国にある「更科」と名の付いた蕎麦屋の人的なルーツの店です。更科とはご存知のように蕎麦の身のところだけをひいて作るので蕎麦殻などが混ざっていない真っ白な蕎麦を指します。私は更科蕎麦でなく黒い斑点のある普通の蕎麦を食べるのが常ですが、10月24,25に食べた山形の蕎麦(紅葉の銀山温泉と新そば祭り)と味比べと思い日曜日に訪れました。山形の蕎麦は黒い斑点のある田舎蕎麦ですが、特に10/25の新そば祭りの蕎麦の方が断然うまい。蕎麦は好みなので何とも言えませんが、私は田舎蕎麦が好きみたいです。

 その後、両国国技館でダライ・ラマ14世の法話を聞いてきました。夏休みのアイガー北壁(ロンドン、ルツェルン、メンヒヒュッテ、アイガートレイル)からハラーさんを知り、そしてハラーさんが若きダライ・ラマ14世の家庭教師だったことを知り、ダライ・ラマ14世の法話を聞くことになったのです。チベット問題などの話は一切なく純粋に仏教の話。

 「空を正しく知ることは自我を捨てることになる」
 「仏教はユダヤ・イスラム・キリスト教のような絶対神の概念はない」

などなど、たくさんの仏教の法話でした。

 ダライ・ラマ14世が「般若心経」を最初に唱えてください、と言われると、韓国からの団体での参加者も日本人も同じように唱えていました。600巻もある「大般若波羅蜜多経」を276文字に圧縮し、分かりやすくした経典だけあり、人種を超えた連帯感が生まれます。

 日本では浄土真宗と日蓮宗を除く宗派は教義の基礎と位置づけているようです。蕎麦の更科もそうですが、日本の仏教の宗派もいろいろですね。

  • 転生者の発見方法
  • ダライ・ラマとパンチェン・ラマ

なども興味がありますが、たまには仏教のことを本格的にじっくり聞くのもいいものだと思いました。特に「空を正しく知ること」が仏教理解の正門であることと、ダライ・ラマ法王が講演後にひとりひとりの質問にちゃんと答えていたことが強く印象に残っています。

※ダライ・ラマ14世の語るダライ・ラマ制度の未来

 『チベット仏教文化の伝統に従えば、ダライ・ラマや高僧の転生者探しは、宗教関係の行事であり、政治とは何の関係もない。特に仏教の教えを否定している者にとっては、転生者探しに何の関係もなければ、それについて議論する権利もない。転生者探しは、職員や委員を選出したりすることと異なる。高僧の化身は、常に全ての生きとし生けるもののためになるように考えて生まれくるので、生まれる場所、父母と家系などが重要となる。これはチベット仏教文化の特徴である。

  もし、チベットの人々がダライ・ラマの転生者が必要であるなら、私の転生者は、中国支配下のチベット国内ではなく、平和な世界のどこかの国に生まれると断言する。それは、前生がやり残した仕事を引継ぎ成就するために転生者は生まれ変わるとチベット人が信じているからである。前生がやり残した仕事を邪魔したり破壊したりするために生まれ変わる転生者はいない。もし、転生者がやり残した仕事を継承できない国に生まれたら、転生者として生まれ変わる意味がない。つまり、私の転生者を必要とするかどうかを最終判断する権利は、チベット国民にある』

ヒマラヤを越える子供たち Escape over the Himalayas
 Maria Blumencron/監督 チベットサポートグループKIKU/販売
中国支配の続くチベットを逃れてネパールに亡命するチベット人は今も毎年1000人以上にのぼる。両親と離れ、冬のヒマラヤを歩いて超えるチベット人の子どもたちの逃避行に同行したドキュメンタリー。

 このDVDは契約しているレンタルサイトにはなく、購入しました。

2009/10/27

【Japan】久しぶりのフレンチ ル・ブルギニオン




 10/26日は2009年2月19日のシェ・ピエール(乃木坂 のビストロ、シェ・ピエールが閉店)以来久しぶりにフレンチレストランに行きました。レストランというよりビストロですが、西麻布3丁目(テレ朝通り沿い)の「ル・ブルギニオン」というお店です。

 ジビエの季節ですし、内臓がおいしいらしいのでここにしました。フレンチビストロも自ら経営する嶋啓祐さんが褒めていますが、ブルゴーニュワインの品揃えが豊富のようです。メインで小鳩のローストか内臓料理か悩んだのですが、菊地美升シェフの得意な臓物料理はコースの2皿目のフォアグラを豚の血と背脂をミンチにしてテリーヌ状に仕上げたものにしてもらいメインは小鳩のローストにしました。ついでに菊池シェフの書いた本も2冊(「60本のブルゴーニュワインに捧げる60皿の料理」、「1つの料理からひろがるフレンチ―「ル・ブルギニオン」の家庭料理」)もサイン入りで買いました。「この本のとおりに作るとこんなところに来なくて済みますか?」と聞きましたら、菊池シェフ曰く「23年かかりましたが、、」とのことです。2009年にはミシュランの1つ星。料理は奥が深いですね(笑)。  久しぶりのフレンチのコース。 たまにはいいものです。 デザートのモンブラン、栗のうまさが凝縮。 おいしかったー。         

2009/10/26

【Japan】紅葉の銀山温泉と新そば祭り


 10/24,25と山形県の銀山温泉に行きました。6月の結婚記念日に行こうと4月ぐらに連絡したら泊まりたかった能登屋という旅館が満室。6月は奥鬼怒温泉郷の加仁湯(奥鬼怒温泉郷 加仁湯、サンショウウオの天ぷら!)に行きましたが、ついでに半年後に予約をしておいた訳です。昭和の初期に建てられた趣のある温泉宿なのですが、たまたま社員旅行の団体が隣と上の階で、夜遅くまでうるさく、ノスタルジーも半減。前回の加仁湯でも集団の日本人の騒音に悩まされましたが、有名旅館では仕方ないですね。 山形は蕎麦がおいしいと知人に聞いており、25日は大石田の新そば祭りにも顔を出しました。少し甘めの汁につけて食べる新そばはなかなかおいしく2杯をペロッといただきました。前日には大石田の駅からタクシーで8,000円もかけて山を越え、有名な大根卸の汁でいただく次年子の「七兵衛そば」の蕎麦(一人1,050円で食べ放題)もいただきました(笑)。次年子とは集落の地名ですが、タクシーの運転手さんによると次年子は毎年2メートルの豪雪地帯で、雪のため冬に子供が生まれると役場の出生届けが翌年になってしまうことから集落名が「次年子」(ジネンゴ)と呼ばれるそうです。雪降ろしは多いと年5回だそうで、少なくても3回とは驚きです。私は雪国の生まれで、1回の雪降ろしでもかなり大変なのですが、5回となると気が遠くなります。 蕎麦・そば・ソバの2日間でしたが、紅葉も見頃で東北の秋を満喫できました。 去年の紅葉は草津(10月の草津白根山は冬)でしたが、今年から東北地方にエリアを広げています。

  ※写真はClickで拡大、能登屋旅館全景。                  

2009/10/19

【Japan】佐島のカワハギ釣り


 日曜日は今年の1/2日にカハワギ釣りに行って以来のカワハギ釣りに佐島に行きました。カワハギは冬場になると肝が膨らみおいしくなります。10月から2月ぐらいまでが旬です。この魚は餌とり名人と呼ばれるぐらいに餌のアサリをうまく食べてしまいます。今回の釣果は二人で3匹(小さいものはリリース)。カサゴが2匹。久しぶりの肝醤油でいただくカワハギの刺身はうまかったのですが、帰りの首都高合流地点の渋滞にウンザリで、次回は品川の船宿から行くことになると思います。 ※写真はClickで拡大(一番右は背びれに1本長い髭があるのでオスです) ところで申し込んだ東京マラソンは抽選に外れました。11月に再抽選があるようですが、無理なら他のマラソンに申し込むしかなさそうです。 今週末は山形に紅葉と新蕎麦を楽しみに行きます。          

2009/10/05

【Japan】気仙沼の居酒屋ぴんぽんの戻りカツオとサンマ


 今年の5月に高知に初カツオ(土佐の初カツオ、山口一豊の妻 千代は郡上八幡城主の娘?)を食べに行きましたが、秋になったので三陸海岸の戻りカツオを食べに気仙沼に小旅行をしました。9月末の第3四半期決算も無事終えた10/3・4の一泊旅行ですが、まずは仙台まで新幹線で行き、ランチは利休の牛タンをいただき、レンタカーで気仙沼へ。夕食は気仙沼で有名な居酒屋ぴんぽんというところで戻りカツオとサンマ、そしてアワビ、イカ、生牡蠣など新鮮な気仙沼の魚をいただきました。気仙沼では福よしという居酒屋の吉次(キンキ)の塩焼きがうまいらしいのですが、1週間前の予約電話では満席。戻りカツオが目的ですし、吉次(キンキ)は知床(知床五湖とキンキ)に任せて、気仙沼では居酒屋ピンポンとなりました。ところがこのぴんぽんの魚はうまいのです。今年は戻りカツオは小ぶりで脂の乗りがいまひとつのようですが、ここでは脂の乗った戻りカツオとサンマの刺身がすごい新鮮でうまい、薦められたビンチョウマグロのハラミとサンマの塩焼きも脂が乗っていてうまい。そして居酒屋ピンポンは異常なくらい安い。「うまい」「安い」「新鮮」という表現がぴったりの店です。 ※写真は刺身の盛り合わせ(Clickで拡大)、これで2,000円。あまりのおいしさに別に追加でサンマ刺し300円、戻りカツオ刺し400円を注文。 日本では現地の旬な食材を素材を活かした料理でいただくと最高においしいものです。仙台から三陸海岸沿いのドライブは疲れましたが、新鮮な旬の魚に満足した小旅行でした。            

2009/09/24

【Japan】白山の雲海に浮かぶ素晴らしい朝日





 ナマステ!

 2008年の9月に銚子ヶ峰に登ったとき(白山登山の演習で銚子ヶ峰へ)に来年は白山登山を弟家族と約束したので、9/20,21日と山小屋(室堂)に泊まり本格的な登山をしました。白山は富山県、福井県、石川県にまたがる2702メートルの山で富士山、立山と並ぶ日本三霊山です。フランス語で「モン」が「山」、「ブラン」が「白い」で、山の形も似ているため日本のモンブランとも呼ばれています。頂上付近はすでに紅葉が始まり美しい高山の草原、そして夕日、夜の星空、朝日と心を感動させる景色のオンパレードです。平瀬道で登り5時間、下り4時間とハードでしたが、弟の中学生の子供たちもコンデンスミルクを舐めながら無事登頂、下山ができました。私は3日もたつのに足はガクガク、風邪気味で、もう少し足腰の筋肉を鍛える必要がありそうです。

※写真は雲海と日の出(Clickすると拡大)
           

2009/09/14

【 Switzerland】ミッテルレギ小屋からのビジネス


 9/12日に辰野勇さんの講演を六本木の富士フィルムで聞いて来ました。辰野さんは21歳のときにアイガー北壁、マッターホルン北壁を登り、その後に株式会社モンベルというアウトドアグッツの会社を設立した人です。彼は16歳のとき、国語の教科書にあるアイガー北壁を初登庁したハインリッヒ・ハマーさんの著書「白い蜘蛛」の一節(7名が雪崩で遭難)から、日本人としてアイガー北壁に挑戦したいと志を抱き、そしてコツコツと貯金をはじめたそうです。そして、シベリア鉄道でスイスに入り、グリンデルヴァルトの牛小屋(アルピグレン)で40日間天気を待ち、アイガー北壁の第2登頂に最年少で成功しました。その後、マッターホルン北壁をも制覇しました。
(グランド・ジョラスは日程的に無理だったようです)

 モンベルはグリンデルヴァルトにお店があり、日本のアウトドアメーカーの店があるなんて、と最初にスイスに訪れたとき(2007年)に驚いていたのですが、今回の講演でその理由が分かりました。アイガー東山稜(ミッテルレギ)の初登頂を行った槙有恒さんの寄付(50%)で東山稜にミッテルレギ小屋が建てられたことは以前にご紹介(ロンドン、ルツェルン、メンヒヒュッテ、アイガートレイル)しました。90年程前のことですが、その後にグリンデルヴァルトは日本人の登山家や観光客で潤い、アイガー北壁を登頂した辰野勇さんも人間的なお付き合いを現地の人たちと続けていました。グリンデルヴァルトの村長さんからの勧めで店を構えたそうですが、場所はCoopの隣の一等地です。大資本で市場調査を行い一等地に店を構えるという海外進出もひとつの方法でしょうが、槙有恒さんからはじまった人間的なお付き合いからアライアンスが育まれてビジネスなる。こういう方法どう呼べばいいのか分かりませんが、ここでは

「ミッテルレギ方式」

と呼ぶことにします。もちろん店が繁盛しないとビジネスは意味がないので、ここからが大変なのですが、、、

※写真はClickで拡大、グリンデルワドルのホテルから、夜の9時のアイガー北壁

 このblogでも紹介した冨田洋さんの「アントレプレーナー富田洋さんと人道目的の地雷除去支援の会」には日本の大企業の方々が多く参加されていましたが、その後のタイ(東南アジア)でのビジネスはスムースだったのかも知れませんね。

 以前に「家庭で作るトルコ料理」から作った料理(バルク・チョルバス、チョップシシ)が今ひとつだったので、味を覚えようとこの本の著者が学んだというアナトリアで食事をして帰りました。イラク人の団体さんが隣にいたので、帰り際に

「مع السلامة」

と言ったら、通じたようで「こんばんわ」と日本語で返されました。
早く「アラビア語の白い蜘蛛」を脱出したい...